第41回「小説でもどうぞ」選外佳作 断捨離 高木空
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第41回結果発表
課 題
ときめき
※応募数358編
選外佳作
断捨離 高木空
断捨離 高木空
玄関の壁紙の天井辺りがめくれかかっている。トイレは三年前にリフォームしたのでまだいいが、洗面所の壁はカビが広がって、多少掃除しても取れるようなものではない。浴室の壁のカビも酷いものだ。結婚して三十年たった。二十三年前に購入した建売住宅が古くなってきて、あちこちガタが来ている。それらの汚れやカビが気にはなるが、元々掃除が好きではないから、もう綺麗にする気などほとんどなくなって、なるべく目を向けないようにしている。
出張に出かける夫を送り出し朝食の片付けを終えた私は、インスタントコーヒーの入ったマグカップを持って、テレビの前のソファーに座った。電源を入れると朝のモーニングショーをやっていた。片付けで有名になったゲイの男性が出ている。週刊誌で顔と名前だけは知っている。いまさら片付けなんてねと興味もなかったが、ほかに観たい番組があるわけでもない。コーヒーを飲みながらそのまま観ていた。
物を片付けるときに、一つ一つ「ときめく」かどうかを確認して、ときめきを感じなかったら捨てるのだそうだ。ゲイの男性が妙なしなを作って、小指を立てて洋服を持ち「これはときめくぅ」「こっちはときめかなーい」と言っている。その人が書いた「ときめきの断捨離」という本はけっこう売れているという。なるほど、ときめくかどうかで判断するってわけね。ちょっと面白そうだ、そう思ってコーヒーを飲み干して真剣に観ることにした。
見終わったらさっそく試してみたくなった。何か物を手に取って「ときめくかどうか」を確認してみよう。まずはマグカップを手にしてじっと見てみた。これは娘が私の誕生日にプレゼントしてくれたカップだ。可愛い猫の絵が描いてある。「ときめき」はよく分からなかったが、娘からのプレゼントを捨てるわけにはいかない。これは捨てられないなとソファーから立ち上がって、キッチンに持って行った。
次に鍋類でやってみようと思った。古い鍋もあるからきっと「ときめいたり、ときめかなかったり」するだろう。一番新しいステンレスの鍋を両手に持って目の高さまで持ち上げ、じっと見てみた。自分の顔が写っている。心のどこかがちょっと嬉しい感じがあった。これを「ときめく」と言うのだろうか。よし、これは合格だ。次に使い古した片手鍋を持ってみた。心がズンと落ち込むような感じがした。これは捨てだ。
そうやって鍋やフライパンを調べていったら、完全に「ときめかない」と思われるものが五つあった。どれも古いものだ。そろそろ捨て時だと思っているものだった。思い切って捨てて、二つくらい新しいものを買おう。そう思ったら、何だか気持ちが晴れ晴れとしてきた。
翌日から衣類に取り掛かった。一枚一枚を手に取ったり体に当てたりして「ときめくかどうか」を調べていった。それにしてもたくさんの洋服だ。自分でも呆れて来る。クローゼットの中に入りきらず、組み立て式の洋服掛けまで購入した。それも今ではいっぱいだ。今まで見ないふりをしてきたが、この際思い切って「ときめきの断捨離」をして半分くらいに減らそう。
買ったばかりのセーターを手にしてみた。文句なく「ときめく」。ウキウキするような感じだ。好きなモスグリーンのカシミア混のセーターだ。これで「ときめかない」としたら、他の何が「ときめく」というのだろう。一枚一枚調べていったら、半分は「ときめく感じ」で、残りの半分は心がズンと落ちるような感じがして、あとは正直よく分からなかった。「ときめかなかった」ものは潔くゴミ袋に詰めることにしよう。
寝室のベッドの上や床までが衣類で埋まっている。「ときめいた」衣類はクローゼットに掛けたり、箪笥の引き出しに丁寧にたたんで入れた。よく分からなかったものは空いた引き出しに適当に突っ込んだ。本当は「ときめく」ものだけにして、他はすべて断捨離するのが良いらしいが、そこまで思い切ることができなかった。それでも私は嬉しかった。クローゼットも箪笥もまるで新築のときのように輝いている気がした。
出張中の夫が一週間いないのを幸いに、朝から夜寝るまで、食べるのも忘れるくらいに私は家中のものを「ときめきの断捨離」していった。ゴミ袋はどんどん増えていった。部屋の中にゴミ袋が積み上げられた。ゴミ袋が増えるほどに私の気持ちは高揚していった。
一週間ぶりに帰宅した夫がその袋の山を見て目をむいた。
「お前、気でも違ったのか」と語気を荒げた。
その瞬間、私は「あ、全然ときめかない」と口走った。
(了)