第41回「小説でもどうぞ」選外佳作 フェルマータにて 佐灯屋さいたに
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第41回結果発表
課 題
ときめき
※応募数358編
選外佳作
フェルマータにて 佐灯屋さいたに
フェルマータにて 佐灯屋さいたに
東京で鬱を患い、九州の実家に帰った。精神科の医師からは、とにかく仕事を休んで、ゆっくりと好きなことだけをするようにと勧められた。三週間――できればそれ以上――の養生を求める旨が書かれた診断書を職場に提出すると、あっさりと病気休暇を取得できた。拍子抜けしながら、ここでの自分の価値はその程度なのかと、少し落胆もした。
休みができたらやるべきことも、やりたいことも無数にあったはずだが、今となってみるとそのどれもがつまらなく思えて、さりとて独り暮らしの下宿に籠もっていてもこの病気が治るとも思えず、仕方なく帰省することにした。それが一週間前のことである。
以来、弛緩しきった日々が続いている。朝起きて、弟の仏壇に線香を備えて、出された食事を租借し、部屋に戻って眠り、昼食を取り、眠り、晩飯を食べて、また眠る。生産的なことなど一切できない。好きなことをしろ、と医師からは言われていたが、何をして良いか見当もつかなかった。睡眠の合間にいろいろなことをやってみたが、テレビもソシャゲも本も映画も、何一つとして胸を震わせてはくれなかった。布団に転がって、飽きた、と呟いた。何よりも、これからも生きていかなければならないことに、飽き飽きとしていた。母には何も言わなかったし、母も事情を聴かなかったが、数年前に死んだ弟と同じ症状だと、恐らく気づいていたのだろう。いつの間にか、目につくところから刃物やひも状のものが消えていた。
以前ならば、休みが取れたら嬉々として小説を書いたものだが、書きたいものが何一つ思い浮かんでこなかった。試しに以前書いた小説を読み返すことにした。仕事の合間を縫って死に物狂いで書いて、脱稿した際には、これは入選するに違いないと自画自賛した小説だった。改めて読んでみると酷い出来だった。特に、登場人物の一人を自殺させたのがよくなかった。友の自殺を乗り越えて小説家として男が成長するという筋書きだったが、書いている時からその友人のことを殺すことに乗り気ではなかった。けれども、殺さないことには物語が成り立たないから――言わば審査員に気に入られるために――彼を殺してしまった。それが今になって呪いのように心を蝕んでいるのではないか、とふと思い至った。
「いや、そこは問題じゃない、俺は死ぬしかなかったのさ」
気が付くと、枕元に彼が立っていた。小説の中で殺した男は、描写した通りの服を着て、書いたとおりの品がいい笑顔を顔に張り付けて、私をのぞき込んでいた。驚いて飛び起きると、いつの間にかそこは砂浜になっていた。私と彼以外誰もいない、静かな浜辺である。それで、ここが夢の中だと気が付いた。
「いいかい、この小説の問題点だがね。意味があるものを書こうとし過ぎているところだよ」
彼は、私の前で原稿の束をひらひらと揺らした。
「意味があるものを書きたかったんだ。だってこの小説は――」
私は自分の原稿に手を伸ばした。その瞬間、彼の顔が別人に代わっていることに気が付いた。
「――お前の死に意味を与えるために書いたんだよ」
死んだ弟に向かって、叫ぶように言った。弟はけらけらと笑った。
「誰がそんなこと頼んだよ。なあ。大方、自分の痛みを真正面から書いたほうが作家らしいとか、そんなこと考えて書いてたんだろ」
弟は私よりも小説を味わって読んでいた。漫画も、映画も、私よりも楽しんで読んでいた。
「お前がいないと寂しいよ。お前が読んでくれないと小説の良し悪しもわからないんだ」
けれども、あいつは、死を選んだ。村上春樹氏も、尾田栄一郎氏も、彼を生かしておくことはできなかった。
私の小説も、同罪だと思っていた。
「あのなあ。俺のために小説を書くな。人のために何かを書こうとするなよ。いつも言ってただろう、自分が一番ときめくものを書けってな」
「それ。なんかの漫画の受け売りだろ。自分は書かなかったくせに、偉そうに言ってたな」
「俺は物語より音楽のほうが好きだったからさ。ほら。こっちにも結構いいスピーカーがあるんだぜ」
彼が指す方向を見ると、砂浜に大きなスピーカーが埋まっていた。それだけではない。浜辺には本が詰まった本棚や大きなテレビなどが、波打ち際のところどころに生えていた。
「俺はこっちでゆっくり休んでるから。兄貴ものんびりしてから来いよ。じゃあ、また」
待ってくれ、と、叫んだところで、目が覚めた。
起きて、布団に散らばった原稿をまとめている時に、終わりの辺りに見慣れないマークが書かれていることに気が付いた。点の上に括弧。それがフェルマータという音楽記号だと気が付いて、私は声をあげて泣いた。ゆっくり、好きなだけ休めと、言われている気がした。
この些細な奇跡を、ちゃんと残しておきたいと思って、久しぶりに筆を執った。日記でもなければフィクションでもない、中途半端で到底人に見せられる代物ではない文章だけれども、傍に佇む死から目を逸らすために、感情の赴くまま、書きたいと思ったことだけ書いた。その鼓動の高鳴りだけが、原始的なときめきだけが、今はこの胸の中にあって、私を確かに生かしている。
(了)