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第2回「おい・おい」佳作 あの母といた夏 大澤優子

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おい・おい
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佳作

あの母といた夏
大澤優子(広島県・68歳)

 

「あなたはただ寂しかっただけなのですね」と忘れ物外来の医師が言うと、母はポロポロと涙をこぼした。母にとってクレジットカードは一振りすれば何でも叶う魔法の杖だった。
 実母の恥をさらすようで、本当はこんなことは書きたくない。しかし、その母が七十八歳で亡くなってかれこれ十七年、七十歳に手が届く年齢になった私の胸には後悔が燻る。
 母は買い物依存症だった。昭和の高度成長期時代、一介のサラリーマンに過ぎない父とパートで働く母の収入で何とか暮らす我が家のような家庭さえも、どこか浮き足立つ好景気だった。
 趣味人の父はいわゆる「九時から五時まで男」。スキーにゴルフにカメラの趣味に加えて、無類のSF好き。会社帰りに書店に立ち寄り、書籍を買い漁っていた。そんなだから母には最低限の生活費しか渡さなかったので、夫婦の間はいつもお金のことでいさかいが耐えなかった。
 四つ違いの兄と私から手が離れ、友人たちとランチや旅行に行くようになると、母も父と競うように浪費するようになった。そのからくりは昭和の終わりに普及し始めたクレジットカードにあった。
「欲しいもんは先取りして手に入れる方が得なんよ。あとはゆっくり月賦で少しずつ払えばえんやから」
 母は商店街の店員に言いくるめられた言葉を信じきっていた。
 兄は広島の食品会社に就職し、私も広島の男性と結婚し広島に移り住んだ。その四年後、還暦を迎えた父が白血病で亡くなり、当時五十七歳だった母は松山で独りで暮らすことになった。たまに電話をしても、母は少ない年金で何とか暮らしていると言っていた。
 そんな言葉を信じたことが迂闊だったと知るのは、喜寿を迎えた母に認知症の兆候が現れ始めたころのことだ。七十七歳の誕生日を迎えて間もなく母は自転車で転倒して圧迫骨折で入院。なんと兄までもが辛うじて一命をとり止める大事故に遭った。
 母を広島の我が家に呼び寄せてみると、消費者金融から大変な借金を抱えていることが判明した。認知症の症状が出始めていた母は、何を聞いても「覚えてとらん」の一点張り。車椅子の母を連れて法律事務所を訪れた夏は、ことさら暑さが身に堪えた。市内電車の線路に車椅子の車輪が挟まり二人して転んだときには、汗と涙で私の顔はぐちゃぐちゃになっていた。
 やがて母の認知症はさらに進み、介護施設に入所。愛情いっぱいに育ててくれた母に愛情のお返しができないまま、母は心不全で逝ってしまった。
(了)