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第2回「おい・おい」佳作 ポストと母と買い物 都良子

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おい・おい
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佳作

ポストと母と買い物
都良炯子(石川県・60歳)

 

「お母さん、バカになってしもうた。もう駄目だわ」
 電話口から漏れる母のぼそぼそとした声に、私は静かに深いため息を飲み込んだ。また何か、取り返しのつかないことをやらかしてしまったのか。あの頃、そんな不安が常に胸の奥にあった。
 母の様子がおかしくなり始めたのは、六十代半ば。他県に暮らす私とは頻繁に行き来や電話のやり取りをしていたが、物忘れが顕著になり、普通の会話も混乱するようになっていった。
 異変のきっかけは精神的ストレス、おそらく私の妹の離婚が大きな要因だった。息子三人を嫁ぎ先に残したまま家を出た妹。一番下の子はまだ七歳だった。できちゃった婚の離婚率は高いと聞くが、母にとっても三人の孫に会えなくなったショックやその他の心理的負担は計り知れないほど大きかったのだろう。
 なかでも、心配だったのは車の運転だ。出先から実家までのルートが途中で分からなくなり、真夜中に帰宅したこともあった。何度も通った道なのに。それ以来、近場のみ父との同乗を条件に運転するようになった。本人が嫌がり医療機関にはかからなかったが、あれは認知症だったのだろう。
 母は日々の食料品の買い物も、父と連れ立って近くの小さなショッピングセンターに行くようになった。駐車場のすぐ先に、真っ赤な郵便ポストが据えられていて、複数ある入り口の目印にもなっていた。
 ある日、母は何を思ったのか、その月の全財産が入った財布と預金通帳と印鑑を、まるで手紙でも投函するように郵便ポストに入れてしまったのだ。そして、目の前のポストに手を合わせ、お賽銭箱にお参りするように柏手を打ち一礼をしたという。その異常な挙動の重大さをすぐに察知した父が、慌てて対処に奔走し、ひどく疲弊したと聞かされた。
 冒頭の母の言葉は、その後、頭がクリアなときに反省した弁だった。買い物を楽しみにする母の財布を完全に取り上げてしまうことはできず、あれこれと父の苦労は多かった。
 それから十年も経たずに母は誤嚥性肺炎で亡くなった。母の死後、納戸や押し入れの中から未使用の新品商品が山のように積み上げられているのを発見した。訪問販売で購入させられたらしい客用寝具が七組もあり、開封されていない箱詰め、袋詰めの商品がごろごろと出てきた。いくら、趣味が買い物だとしても度を越していた。
 老いることへの不安は尽きない。体の衰えより、何より怖いのは自分自身が分からなくなってしまうことだ。
(了)