第2回「おい・おい」選外佳作 欲深い九十三歳 聖野クロード


欲深い九十三歳
聖野クロード(群馬県・59歳)
他人に何かを頼むということが苦手だ。交渉などとんでもない。そうしたことからは逃げるように生きてきた。どうにもならないときは諦める。それが一番だ。
そんな私の実家の母は御年九十三歳。頭はしっかりしているが、最近は歩くのも覚束ない。
帰省した際、「足がむくんで痛い」というので、ズボンの裾を上げて見たところ、左足がぱんぱんにふくれ、右足の倍以上もの大きさになっている。
「どうしたの? この足」
聞いてみたが、医者にもわからないと言う。加齢によるリンパの異常かなんからしく、対症療法で足湯などするしかないそうだが、翌日にはまたむくんでしまうらしい。
「九十三歳ではしょうがないか」
半分諦めつつも、少し歩いてみたらどうだろうかと、母親を促して散歩に出た。
母親は転倒予防にカートを押しながら歩く。私は後ろから危なくないように見守る。散歩と言っても家の周囲、二百メートルトラックほどの地域を一周するだけだが、途中、昔からある洋品店の前を通りかかったとき、
「このズボンを一つ買おうかな」
母親が吊るしのズボンを見て言った。
「足が悪いから試着も無理だし、サイズがわからないから買えないよ」
私は言ったが、「Lなら大丈夫」と言う。大は小を兼ねると。
それでLサイズ八三〇円を購入し、自宅に帰った。
さて、掃除でもするかと用意していたら、試着をしていた母親が言った。
「長さはいいが、左足が入らない」
ぱんぱんにむくんでいるので足が通らないと言う。言わんこっちゃない。
「まあ、八三〇円、捨てたと思うしかないよ」
返品という発想がないから領収書ももらってないし、値札も切って捨ててしまった。そんな商品を持っていってたら嫌な顔をされそうだ。
ところが、母親は「だめだ、損する。LLと替えてきてくれ」と言う。
やだよ、俺、そういうの一番嫌いなんだって。頼みごととか苦手なの。
そう訴えたが、母親は聞かない。それなら自分で交換に行くと言う。
「わかったよ、危ないから。俺も一緒に行くから」
先ほどの洋品店に着き、「LLでいいのね」と商品を取ろうとすると、母親は別の商品に目移りしたようだった。
「やっぱり、こっちのジャージみたいなのがいい。はきやすそう」
はいはい、わかりました。こっちのやつと交換するのねと値札を見ると、あろうことか七九〇円。サイズが合わないから交換してくれと言うのも嫌なのに、そのうえ四十円返金しろなんて俺には絶対に言えない。しかし、母親は聞かない。九十三歳で欲ありすぎだろ!
頭を抱えたとき、お店の方が会話を聞いていたのか近寄ってきた。
「はい、こちらと交換ね。では、四十円返金」
領収書もないのに応じてくれた。地元のお店でよかった。
(了)