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第2回「おい・おい」選外佳作 コロッケを買ったついでに買いました 雑賀明美

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おい・おい
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<選外佳作>

コロッケを買ったついでに買いました
雑賀明美(大阪府・69歳)

 

「今日は市場のコロッケだ」と私。
「ここのコロッケはやっぱりうまいなあ」と父。
「コロッケを買ったついでに、欲しいものがあったから、予約したわ」と母。
 母が欲しいものがあるというのは珍しい。
「へえ、何買ったの」と聞くと「マンション」と言う。三人の箸が一斉に止まった。聞き違いかと「マンション?」と返す。
「そう、年末に完成する」
 母は大正生まれ。新婚当時は貧乏の代名詞だった「みかん箱暮らし」。母は一人っ子の私を保育園に預けて働いた。おかげで私は何不自由なく育ち、母のお給料は全額、私の大学の学費だった。両親は定年まで働いた。
「階段はもうしんどい。自分で買った家で死にたい」と母が続ける。その時の家は古い二階建ての借家だった。寝室は二階で、階段を下りる時は腰も痛く、足がすくむと言う。三十年も働いたから、「自分で買った家で死んでもいいよね」と聞く。
 翌日、父とモデルハウスに行った。最上階の八階で、南向き。バブルの時で、価格は五千万円。競争率も十倍なので、当選したら考えようと父と話はまとまった。
 当選した。父の退職金を全額つぎ込み、足りない分は現役勤労者の私のローン。
 思わぬ事態になったが、母の「自分で買った家で死にたい」には勝てなかった。ただ、その言葉の本当の意味を知ったのはそれから五年後、父が他界したあとだ。
 父は肺癌だったが、このマンションから見送った。更に十年後、母はケアマネージャーと私に「自分で買った家で死にます」と願いではなく、宣言した。その時は「自分で働いて、買った家で死にたいと思うのは当り前」と娘の私も思った。
 ところが、どっこい母の介護生活はそれから十三年にも及ぶ。昼夜逆転、認知症も見え隠れ、しまいに私は「家政婦さん」と呼ばれた。毎日が「戦闘」。ただ家にいることだけはわかっていたように思う。二十四時間ベッドで、全ての世話を人に委ね、ほぼ寝ている。時に何かが見えるのか、両手を上にあげて、何かを掴もうとする。「あーあー」としか発声しない。その両手を私は掴み、「家だよ」と言うと、母はかすかに微笑んで手を下ろす。
 そして眠るように母は逝った。享年百歳。正直、施設の選択も悩んだ。ただ「自分の家で死ぬ」という母と娘の挑戦だった。生き方も死に方も人それぞれ。母は「一世一代」の買い物をした。私は今、残されたこのマンションでいかに「老いるか」の宿題をしている。
(了)