第52回「小説でもどうぞ」佳作 八時十二分の別れ 海門いおら


第52回結果発表
課 題
ゲーム
※応募数361編
海門いおら
アパートのドアが開いて、やっと
晴人の息は少し上がっている。ここまで自転車を飛ばして駆けつけた。ゲームで言えば、クライマックスのイベントが始まったみたいな感覚だ。汗ばんだ体は気づかれていないだろうか。体力ゲージは満タンではない。
ふわっと緩んだ那津の顔は、何か言いかけてすぐに萎んだ。
隣にいた那津のお母さんが晴人に会釈しながら、那津に「電車、急がないと」と言ったのだ。「荷物やお父さんが、向こうで待っているから」
那津の転校が決まったのは一月前。小学生が“ちょっと行ってくる”なんて言える距離じゃない、遠い場所だった。「ハル」と少し掠れて呼ぶ声も、もう聞けなくなる。集合してゲームをすることもなくなる。攻め込む役とサポートに回る役。交互に切り替えてやってきた「ハルナツコンビ」も、もう解散だ。
どうしようもない事情は理解できるが、飲み込めるほど大人でもない。晴人はこの一月、無意識に那津を避けてきた。ほとんど口も聞いていない。胸の奥がザワザワして、まともにプレイできそうにないから、マンガばかり見て、ゲームもしていなかった。
肩を落としてこちらを伺う那津よりも、晴人の方が俯く角度は深かった。那津が旅立つ当日になって、何も考えずに家を飛び出してきたが、いざ目の前にすると言葉が出ない。この一月が二人を何年も会ってないかのように隔ててしまったような気がした。だから晴人は、これまでの自分自身の態度が、幼稚で、悔しくて、情けなく思う。
黙り込んだ二人を目に、おばさんはため息をついた。「晴人君、ごめんね。時間あるから。ナツ。向こうから手紙でも書いてあげなさい」
でもってなんだ。晴人はついおばさんを睨んでしまう。転勤族の家庭にとって、引っ越しは“よくあるステージ移動”なのかもしれない。でも、友達はそうじゃないだろ。セーブして別ファイルに移せば済むキャラじゃない。
けれど言葉が出ない。晴人はもう一度視線を落とした。
「あ」
思わず声が出た。目に入った那津の靴が、新しい白い靴だったからだ。そのまま自分自身の黒い靴を見る。有名メーカーのロゴが入った黒い靴は二人のお揃いで、ハルナツコンビの証だった。那津の靴の変化が、晴人に壁を感じさせた。那津はもう旅立ってしまう。新しい学校に行く。そこは、もう俺たちの学校ではない。
晴人の中の何かが切れた。
「ハル」
那津が呼ぶが、晴人は、そらすように言う。
「俺も用事あるから。じゃあな」
背中を向けて歩き出す。顔が歪む。こんなエンディング、あるもんか。そんな気持ちが喉まで込み上げてくる。勝手に拗ねているのは自分自身だ。けれど、どうしようもない。
角を曲がって置いていた自転車にまたがる。帰ろうとペダルを踏みかけて、躊躇した。
「ほんとハルナツコンビは、手がかかるわ」
学級委員の亜希の言葉が蘇った。面倒見の良い彼女は、二人をいつも注意しながらも、姉のように見守っていた。
「ハル。あんたのいいとこってさ、考える前に行動できるとこだよ。攻略方法なんて考える前に、さっさとゲーム進めちゃうタイプ。だから、少し羨ましい」
「考える前に動け、か」晴人は自転車をひるがえした。それなら、最後にもう一度、那津を見たい。晴人は自転車を漕ぎだした。那津の家の前まで戻ると、もう二人の姿はない。灰色のアスファルトが朝日に光っている。
コントローラーのボタンを握ったときの、あの緊張に似た感覚が手のひらに広がる。
考える。自分は、どうすれば——。
いや、違う。ここで考えてる場合じゃない。行動しろよ。スタートボタンを押すのは、自分だろ。手に力を込めた。
「はい、朗読はここまでです」
冬月先生が視線をあげて児童を見渡すと、唐突な展開に六年二組の空気がざわめいた。
「では、配った小テストを、始めてください。制限時間は五分間です」
「どういうこと?」
何人かの児童が思わず言う。今は三時間目の算数の授業。いつもしっかりしている先生なのに、今日はどうしてしまったのだろう。呆気に取られたまま、彼らは紙をひっくり返す。
『午前八時に那津君は分速百メートルで二キロ離れている駅へ向かいました。晴人君は六分後に分速三百メートルで追いかけました。晴人君が追いつくのは何時何分でしょう』
おおっ、と歓声が上がる。
「ハル、行ったな……」
「もっとスピード上げろよ!」
「先生、これ実話ですか?」
「はい、テスト中は私語禁止」冬月先生は冷静に注意してから、少しだけ表情を崩した。「たまには、こんなゲームみたいなストーリー仕立ての問題もいいでしょ」
静まった教室の中で、児童たちの鉛筆の音だけが響く。冬月先生は教卓の椅子に腰を落とした。これで少しでもみんなもやる気になってくれればいいけれど、と彼女は思う。それにしても、本当にあの日、彼は追いつけたのだろうか。
気づけば、あれからもう二十年になる。自分には何も語ってくれないまま、時が過ぎた。大人になった彼らはまだ交流しているのだろうか。「どのエンディングにするかなんて、自分次第だろ」という那津の言葉だけが、胸に残っている。
冬月亜希先生は窓の外を眺めた。太陽の光が注いでいた。その眩しさは、小学校の頃のままだった
(了)