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第52回「小説でもどうぞ」選外佳作 兄のBダッシュ 海野こころ

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小説
小説でもどうぞ
第52回結果発表
課 題

ゲーム

※応募数361編
選外佳作 

兄のBダッシュ 
海野こころ

 わたしたちは子どもの頃から、正反対の兄妹だった。
 兄はとにかく豪快で、何をするにも迷いがなかった。体は小柄なのに、何事にも果敢に挑んでいく兄の背中はとても大きく見えて、臆病なわたしはいつも、その影に隠れるようにして後をついて回っていた。
「大丈夫、怖くないよ」
 はじめてのものはなんだって怖がるわたしに、兄はよくそう言った。虫採りをするときも、木登りをするときも、その言葉とともにまずは自分がやってみせてくれた。
 それでもわたしは不安だった。虫に噛まれたらどうしよう。木から落ちてしまったらどうしよう。心配の種はいくらでもあって、わたしの頭の中をいっぱいにした。
 兄は緊張でつめたくなったわたしの手をやわらかく包みこむように握り、「怖くないよ」と何度でもやさしく繰り返した。
 兄はせっかちだったけれど、迷うわたしのことを急かしたり、無理強いしたり、途中で呆れて放り出したりすることは決してせず、わたしの気持ちが整うのをいつまでも辛抱強く待っていてくれた。
 唯一待ってくれないのが、ゲームをプレイするときだった。
 外遊びばかりしていた兄も、ままごとが好きだったわたしも、配管工の兄弟が攫われた姫を助けに行くあの有名なゲームには夢中になった。
 プレイスタイルはもちろん正反対だった。すべてのアイテムを手に入れ、慎重に敵を倒していくわたしに対して、兄はとにかく速くステージをクリアすることにこだわり、Bボタンを押したまま高速移動する、いわゆる「Bダッシュ」の状態で画面の中を駆け抜けた。
 兄のBダッシュは速かった。いや、Bダッシュの速度にはきっと個人差なんてないのだろうけれど、先に何があるか分からない状態で走っていくことなんて到底できないわたしには、それはとてつもなく速いものに感じられたのだ。
 迷いなく一直線に走っていく兄は、敵にぶつかったり穴に落ちたりしてゲームオーバーになる確率が高く、交代でプレイするわたしにはすぐにコントローラーが回ってきた。
 いつもは辛抱強く待ってくれる兄だったけれど、ゆっくりとステージを進んでいくわたしを見るときだけは、じれったそうに体を揺すっていた。そして、わたしが新たに出現した敵や不気味な音楽の流れる地下のステージを怖がって固まると、わたしの手からひょいとコントローラーを奪うのだった。
「大丈夫、怖くないよ。よし、兄ちゃんが先に見てきてやるからな」
 兄は調子よく言って、わたしが地道にパワーアップさせたキャラクターで得意のBダッシュを繰り出し、やっぱりすぐにゲームオーバーになった。努力を無駄にされたことよりも、速く走れる兄が羨ましくてわたしは泣いた。
「兄ちゃんははやすぎる。ずるい」
 だったらおまえも走ればいいだろ、と兄は言わなかった。
「いいんだよ、おまえはゆっくりで」
 兄はそう言いながら泣くわたしをなだめ、しかしコントローラーは放さないまま、振り出しに戻って体の小さくなったキャラクターを、懲りずにすばしっこく走らせていた。
 そんな兄だったけれど、元来外遊びが好きだったこともあって徐々にゲームからは遠ざかり、やがてゲーム以上に熱中するものを見つけた。それが旅と写真だった。
 兄はカメラとデイパックだけを持って、中高生時代は鈍行列車で日本各地を巡り、大学生になるとアジアを中心に海外にも足を向けて、興味の趣くままに移動しながら写真を撮り続けた。その熱は一向に冷めず、大学卒業後は海外を拠点に活動を行うカメラマンに弟子入りする道を選んだ。
 アシスタントとして雑用をこなしながら日々技術を学ぶというのは、こつこつとアイテムを集めることが苦手だった兄の行動としては珍しく思えたけれど、目的に向かって一直線に突き進んでいくさまはやはり兄らしかった。
 わたしは大学で昆虫が外敵から身を守るときにとる行動について研究しながら、兄が世界のいたるところから送ってくれる写真を楽しみにしていた。
 野生動物、歴史的建造物、少数民族。兄は美しく切り取った世界の断片をたくさん見せてくれた。
 相変わらず臆病で海外旅行には不安を抱いていたわたしだったけれど、兄の写真を見てからどうしようもなく心惹かれる場所があり、昨年初めて渡航した。入念に下調べをしたにもかかわらずわたしは道に迷い、泣きそうになりながら右往左往しているところをある男性に助けられ、帰国後も交流を続けていたその彼とやがて恋仲になって、近々結婚することになっている。
 兄の訃報が届いたのは、そんな矢先のことだった。

 足もとでゆらりと、影が動いた。
 のろのろと頭を持ち上げたらひどく首が痛んで、わたしはずいぶんと長い間うつむいていたことに気がついた。
 泣きすぎてかすむ目に、灰色の煙突の胴体が映る。真っ青な空を突き刺すように長く長く伸びる煙突を見上げていきながら、わたしは兄が最後に送ってくれた写真――どこかの国の祈りの塔――のことを思い出し、それからあのゲームに出てきた土管のことを思い出した。
 煙突の先端からは白い煙が出ている。勢いよく、まっすぐに、空へと昇っていく。
「はやすぎるよ、兄ちゃん」
 つぶやいたわたしの声は、子どもの頃と同じくらい弱々しく震えていた。
 ――大丈夫、怖くないよ。兄ちゃんが先に見てきてやるから、おまえはゆっくり来ればいい。
 やさしい兄の声が頭の中に響き、冷えた指の先がふんわりと、あたたかいものに包まれたような気がした。
(了)