第15回「小説でもどうぞ」選外佳作 家族写真/森野ひよこ
第15回結果発表
課 題
表と裏
※応募数212編
選外佳作
「家族写真」
森野ひよこ
「家族写真」
森野ひよこ
行ってきます、という裕一郎の背を見送り、私は朝食の皿を下げる。牛乳パックを冷蔵庫に戻すと、指先が触れた扉のポケットの下に違和感があり覗き込む。何かのキャラクターのシールだ。朝食の片付けの手を止め、私はシール剥がしに専念する。
私は後妻だった。裕一郎とは同じ会社で、当時、妻と息子を水難事故で亡くしたという噂を聞いた。ずっと彼のことが気になっていた私は、傷心の彼に過剰な程アピールした結果、今の地位を手に入れている。こちらからお願いして結婚したようなものだ。さらに、もともと仕事が性に合わなかった私は結婚を機に退職した。この家を手放すことを渋る彼を説得することはできなかった。
家にあった小物は全て買い直したが、棚や家電製品等はそのまま使っている。ただ問題は、彼の息子はシールが好きだったらしく、いたるところに痕跡があった。私は見つけるたびに必死で掃除した。前の住人の痕跡を少しでも消したかった。
私はいつものように天井近くからハタキをかけ、棚を拭き、丁寧に掃除機をかける。彼は非常に几帳面できれい好きだった。何かが定位置から動くことを嫌う。それでもリビングと寝室は私に任せてくれているが、書斎だけは入ることも禁じられている。
掃除が終わると十一時になるところだった。買い物に行くついでにたまには外でご飯でも食べよう。私は着替えて家を出た。
「ちょっと、すみません」
歩き出した途端、後ろから話しかけられた。振り向くと薄汚れてよれよれのコートを羽織った四十代半ばの男性だった。私は思わず眉根を寄せた。
「あなた、日下裕一郎の恋人か何かですか」
「妻ですが。夫に何か御用ですか」
男は驚いたように目を見開く。
「驚いた。また所帯を持っていたとは。あなた結婚して何年です? 生命保険に入っているんじゃないですか?」
「何なんですか、一体」
私はバッグを抱えるようにして男と距離を取った。男は名刺を取り出し私に手渡す。
「いや、失礼。私は探偵でして、ある人の依頼で日下裕一郎を調べています。彼の妻子、いやあなたの前のですが、亡くなっているのはご存知ですか」
「ええ。可哀想な事故よ」
「ではその前は?」
「その前?」
「はい。一度目の妻子は火災、二度目は水難事故で失っています。そして三度目の妻があなた。しかも日下の両親は彼が幼いときに服毒自殺している」
「やめて。警察呼びますよ」
私は男を睨みつけると、足早にその場を去った。男は追っては来なかった。
昼食を取っていても、買い物していても、一向に気が晴れない。私は結局何も買わずに家に帰る。
私はそっと彼の書斎に入った。別に鍵がかかっているわけではない。ただ入るなと言われているだけだ。もちろん何かを動かしたら気づかれてしまうだろう。私は手を組み、何も触らないようにして部屋を見渡した。
彼らしい整頓された部屋だった。本棚は背表紙が綺麗に揃っていて、埃一つない。窓際に置かれたデスクの上にはパソコンが一台と写真立てがひとつ。ペン立てさえ置かれておらず、広く感じる。
私は思わず写真立てに手を伸ばしていた。結婚式はしなかったが、代わりに二泊三日で温泉旅行に行ったときの写真だ。あのとき、彼は珍しく写真を撮ろうと言った。彼がそう望んだのはあのときの一回だけだ。笑顔を見せる私の隣でぎこちなく見あげる彼の顔にそっと触れ、気づく。写真がやけに厚い。
私は写真立てを開け、中を取り出す。中には四枚の写真が収まっていた。私たちの写真の次の写真は知っている。彼の前の家族だ。この家の前で撮られている。その次のものは知らない。高級そうな飲食店で若い彼に寄り添う女性が女の子と並んで微笑んでいる。彼は今と同じぎこちない表情で写っている。その次のものも知らない。少し褪せた写真で仲良さそうに肩を抱く四十代くらいの夫婦と小学生くらいの男の子。他の写真と同じように首を少し傾げぎこちない表情を見せている。
何気なく写真の裏を見て、息を呑んだ。
〇年〇月〇日 父・母と 自宅前
〇年〇月〇日 洗剤入りカレー 1500万円
×年×月×日 理子・朱里と 酒香楼
×年×月×日 自宅失火 火災3100万円 生命3500万円
△年△月△日 麗華・勇人と 自宅前
△年△月△日 荒川河川敷き 5000万円
突然、首に細い縄が掛けられ強く後ろに引っ張られる。顎下の紐を掻きむしるように抵抗するが、やがて意識が遠のいていく。
(了)
私は後妻だった。裕一郎とは同じ会社で、当時、妻と息子を水難事故で亡くしたという噂を聞いた。ずっと彼のことが気になっていた私は、傷心の彼に過剰な程アピールした結果、今の地位を手に入れている。こちらからお願いして結婚したようなものだ。さらに、もともと仕事が性に合わなかった私は結婚を機に退職した。この家を手放すことを渋る彼を説得することはできなかった。
家にあった小物は全て買い直したが、棚や家電製品等はそのまま使っている。ただ問題は、彼の息子はシールが好きだったらしく、いたるところに痕跡があった。私は見つけるたびに必死で掃除した。前の住人の痕跡を少しでも消したかった。
私はいつものように天井近くからハタキをかけ、棚を拭き、丁寧に掃除機をかける。彼は非常に几帳面できれい好きだった。何かが定位置から動くことを嫌う。それでもリビングと寝室は私に任せてくれているが、書斎だけは入ることも禁じられている。
掃除が終わると十一時になるところだった。買い物に行くついでにたまには外でご飯でも食べよう。私は着替えて家を出た。
「ちょっと、すみません」
歩き出した途端、後ろから話しかけられた。振り向くと薄汚れてよれよれのコートを羽織った四十代半ばの男性だった。私は思わず眉根を寄せた。
「あなた、日下裕一郎の恋人か何かですか」
「妻ですが。夫に何か御用ですか」
男は驚いたように目を見開く。
「驚いた。また所帯を持っていたとは。あなた結婚して何年です? 生命保険に入っているんじゃないですか?」
「何なんですか、一体」
私はバッグを抱えるようにして男と距離を取った。男は名刺を取り出し私に手渡す。
「いや、失礼。私は探偵でして、ある人の依頼で日下裕一郎を調べています。彼の妻子、いやあなたの前のですが、亡くなっているのはご存知ですか」
「ええ。可哀想な事故よ」
「ではその前は?」
「その前?」
「はい。一度目の妻子は火災、二度目は水難事故で失っています。そして三度目の妻があなた。しかも日下の両親は彼が幼いときに服毒自殺している」
「やめて。警察呼びますよ」
私は男を睨みつけると、足早にその場を去った。男は追っては来なかった。
昼食を取っていても、買い物していても、一向に気が晴れない。私は結局何も買わずに家に帰る。
私はそっと彼の書斎に入った。別に鍵がかかっているわけではない。ただ入るなと言われているだけだ。もちろん何かを動かしたら気づかれてしまうだろう。私は手を組み、何も触らないようにして部屋を見渡した。
彼らしい整頓された部屋だった。本棚は背表紙が綺麗に揃っていて、埃一つない。窓際に置かれたデスクの上にはパソコンが一台と写真立てがひとつ。ペン立てさえ置かれておらず、広く感じる。
私は思わず写真立てに手を伸ばしていた。結婚式はしなかったが、代わりに二泊三日で温泉旅行に行ったときの写真だ。あのとき、彼は珍しく写真を撮ろうと言った。彼がそう望んだのはあのときの一回だけだ。笑顔を見せる私の隣でぎこちなく見あげる彼の顔にそっと触れ、気づく。写真がやけに厚い。
私は写真立てを開け、中を取り出す。中には四枚の写真が収まっていた。私たちの写真の次の写真は知っている。彼の前の家族だ。この家の前で撮られている。その次のものは知らない。高級そうな飲食店で若い彼に寄り添う女性が女の子と並んで微笑んでいる。彼は今と同じぎこちない表情で写っている。その次のものも知らない。少し褪せた写真で仲良さそうに肩を抱く四十代くらいの夫婦と小学生くらいの男の子。他の写真と同じように首を少し傾げぎこちない表情を見せている。
何気なく写真の裏を見て、息を呑んだ。
〇年〇月〇日 父・母と 自宅前
〇年〇月〇日 洗剤入りカレー 1500万円
×年×月×日 理子・朱里と 酒香楼
×年×月×日 自宅失火 火災3100万円 生命3500万円
△年△月△日 麗華・勇人と 自宅前
△年△月△日 荒川河川敷き 5000万円
突然、首に細い縄が掛けられ強く後ろに引っ張られる。顎下の紐を掻きむしるように抵抗するが、やがて意識が遠のいていく。
(了)