第15回「小説でもどうぞ」選外佳作 「バラライカ」の80歳/平野みどり
第15回結果発表
課 題
表と裏
※応募数212編
選外佳作
「『バラライカ』の80歳」
平野みどり
「『バラライカ』の80歳」
平野みどり
良い時代になっだ。メタバースって、年寄りのためにできたんじゃなかろうか。足腰が弱っても、自分のアバターで仮想空間の美術館や観光地に、一人で自由に行くことができる。80歳の私は、杖が手放せないので付き添いなしで実際に遠出するのは心細い。実は、明日、家族に内緒で行きたい仮想空間があるのだ。
私のアバターを作ってもらうため、コロナ禍の中で生まれた20歳の孫に、私の60歳の時の写真データを渡したら不思議がられた。
「ばあば、なんで? もっと若いのにすれば?」
「60歳のアバターがいいの」
明日はKさんの80歳の誕生日。私と同い年のKさんは、二十年前、会社の上司だった。同時に迎える定年退職を前に、Kさんは私たちの逢瀬をこれからも続けたいと言ったが、私はこれを機に別れようとした。同じ職場で会えなくなる以上、互いの家族に隠し通す自信がなかったからだ。退職後も何度かKさんから会いたい旨のメールをもらったが、私は新型コロナウイルスの蔓延を理由に先延ばしにしていた。やがて、Kさんから「僕の80歳の誕生日に会ってほしい」という提案が来て、私がそれに賛同したのが最後のメールとなった。
「Kさんの80歳の誕生日、2040年9月10日に、幾度も共にグラスを傾けたショットバー『バラライカ』で再会する」という約束。80歳なんていう遠い先の約束なんて、しないのと同じだ。が、私にはそのあと六十代も七十代も、意識する異性はいなかったから、Kさんとの思い出は上書きされることもなく、心の奥に残り続けた。
仏壇から、夫の遺影が私を見ている。夫はIT機器音痴だったから、最近私の部屋に設置したメタバース専用モニターを見たとしても、大型テレビだとしか思わなかったろう。
二年間の闘病生活を経て夫が亡くなった五年前、本箱の奥にあった夫の本に、一枚の写真が挟んであるのをみつけた。湖畔で、知らない女性の肩を抱いてにこやかに笑う夫の写真。私は「そういうこともあったろうさ」と素直に受け止めた。でもその後すぐ、バー『バラライカ』を見に行ったのは、仕返しみたいな気持ちもあったと思う。ビルはそのままだが、店はなく、その場所はレンタルオフィスになっていた。町は変わる。Kさんも変わっているはずだ。再会する場所がなくなっていると知って、一層、Kさんとの思い出が膨らんだ。
ある時、孫が、メタバースのアプリに、行きたい場所の年号を入力すると、その年の町の風景が現れる機能が増えたことを教えてくれた。確かめると、2020年の仮想空間にバー『バラライカ』が存在していた。だから、明日、私は一人でそこに行って思い出に浸ろう。
2040年9月10日、60歳の私のアバターは、仮想空間2020年のバー『バラライカ』の窓際席にいた。
新しい客が来るたびに、入口を見てしまう自分に苦笑する。そんなことを繰り返していた時、やってきた一人の中年男。Kさんだった。私と会っていた頃より若々しい。Kさんも、若いアバターを作ってきたのか。
私は、急いで、傍らにあったVRゴーグルをかけ、VRグローブをはめる。私の視点も手の動きも、私のアバターのそれと重なる。私はKさんをみつめて手を振った。
「Kさん!」
Kさんは、驚いたように私を見る。
「え?」
「二十年ぶり……。嬉しいです。約束、覚えていてくださったなんて……」
「ああ、そういうことか……」
「夫は五年前亡くなって、今私、独り身です」
「そう、それはお寂しいでしょう」
「ええ、でも仮想空間で、こうしていろいろな方に会えますから……」
「確かに便利な時代になりました」
「Kさんの奥様は?」
「え、ああ、施設にいます」
「Kさんこそ、お寂しいでしょう。これからも、お話し相手なら、私、出来ると思います。よろしければ、今の連絡先を交換しませんか」
突然、Kさんのアバター画像が乱れて、そのまま消えた。機械の不調? 奥様がご健在だから? でも、私との約束を覚えていてくれたという事実が私の心を慰めた。
× × ×
俺が作った父のアバターで、デジタル「バラライカ」に入ると、一人のおばさんが俺を目で追いながら「Kさん……」と父の名を呼んだ。そうか、これが父のクラウド日記にあった80歳の誕生日に再会の約束をした女か。老人施設にいる母が「定年間際のお父さんは絶対浮気してた。デジタル遺品から証拠を見つけたら教えてほしい」と言うのは、老人特有の頑固な思い込みだと思っていたのだが。
でも、家族に隠し通したまま逝った父の気持ちを思って、母には言わない。60歳の時の父に、こんな華やいだ日があったなら、俺にもこれから出会いがあるかもしれないし……。
(了)
私のアバターを作ってもらうため、コロナ禍の中で生まれた20歳の孫に、私の60歳の時の写真データを渡したら不思議がられた。
「ばあば、なんで? もっと若いのにすれば?」
「60歳のアバターがいいの」
明日はKさんの80歳の誕生日。私と同い年のKさんは、二十年前、会社の上司だった。同時に迎える定年退職を前に、Kさんは私たちの逢瀬をこれからも続けたいと言ったが、私はこれを機に別れようとした。同じ職場で会えなくなる以上、互いの家族に隠し通す自信がなかったからだ。退職後も何度かKさんから会いたい旨のメールをもらったが、私は新型コロナウイルスの蔓延を理由に先延ばしにしていた。やがて、Kさんから「僕の80歳の誕生日に会ってほしい」という提案が来て、私がそれに賛同したのが最後のメールとなった。
「Kさんの80歳の誕生日、2040年9月10日に、幾度も共にグラスを傾けたショットバー『バラライカ』で再会する」という約束。80歳なんていう遠い先の約束なんて、しないのと同じだ。が、私にはそのあと六十代も七十代も、意識する異性はいなかったから、Kさんとの思い出は上書きされることもなく、心の奥に残り続けた。
仏壇から、夫の遺影が私を見ている。夫はIT機器音痴だったから、最近私の部屋に設置したメタバース専用モニターを見たとしても、大型テレビだとしか思わなかったろう。
二年間の闘病生活を経て夫が亡くなった五年前、本箱の奥にあった夫の本に、一枚の写真が挟んであるのをみつけた。湖畔で、知らない女性の肩を抱いてにこやかに笑う夫の写真。私は「そういうこともあったろうさ」と素直に受け止めた。でもその後すぐ、バー『バラライカ』を見に行ったのは、仕返しみたいな気持ちもあったと思う。ビルはそのままだが、店はなく、その場所はレンタルオフィスになっていた。町は変わる。Kさんも変わっているはずだ。再会する場所がなくなっていると知って、一層、Kさんとの思い出が膨らんだ。
ある時、孫が、メタバースのアプリに、行きたい場所の年号を入力すると、その年の町の風景が現れる機能が増えたことを教えてくれた。確かめると、2020年の仮想空間にバー『バラライカ』が存在していた。だから、明日、私は一人でそこに行って思い出に浸ろう。
2040年9月10日、60歳の私のアバターは、仮想空間2020年のバー『バラライカ』の窓際席にいた。
新しい客が来るたびに、入口を見てしまう自分に苦笑する。そんなことを繰り返していた時、やってきた一人の中年男。Kさんだった。私と会っていた頃より若々しい。Kさんも、若いアバターを作ってきたのか。
私は、急いで、傍らにあったVRゴーグルをかけ、VRグローブをはめる。私の視点も手の動きも、私のアバターのそれと重なる。私はKさんをみつめて手を振った。
「Kさん!」
Kさんは、驚いたように私を見る。
「え?」
「二十年ぶり……。嬉しいです。約束、覚えていてくださったなんて……」
「ああ、そういうことか……」
「夫は五年前亡くなって、今私、独り身です」
「そう、それはお寂しいでしょう」
「ええ、でも仮想空間で、こうしていろいろな方に会えますから……」
「確かに便利な時代になりました」
「Kさんの奥様は?」
「え、ああ、施設にいます」
「Kさんこそ、お寂しいでしょう。これからも、お話し相手なら、私、出来ると思います。よろしければ、今の連絡先を交換しませんか」
突然、Kさんのアバター画像が乱れて、そのまま消えた。機械の不調? 奥様がご健在だから? でも、私との約束を覚えていてくれたという事実が私の心を慰めた。
× × ×
俺が作った父のアバターで、デジタル「バラライカ」に入ると、一人のおばさんが俺を目で追いながら「Kさん……」と父の名を呼んだ。そうか、これが父のクラウド日記にあった80歳の誕生日に再会の約束をした女か。老人施設にいる母が「定年間際のお父さんは絶対浮気してた。デジタル遺品から証拠を見つけたら教えてほしい」と言うのは、老人特有の頑固な思い込みだと思っていたのだが。
でも、家族に隠し通したまま逝った父の気持ちを思って、母には言わない。60歳の時の父に、こんな華やいだ日があったなら、俺にもこれから出会いがあるかもしれないし……。
(了)