第15回「小説でもどうぞ」選外佳作 それでも君が笑ってくれるなら/秋田柴子
第15回結果発表
課 題
表と裏
※応募数212編
選外佳作
「それでも君が笑ってくれるなら」
秋田柴子
「それでも君が笑ってくれるなら」
秋田柴子
――今週も来てくれた。
厨房の片隅で粉を捏ねながら、僕は心の中で小さく拳を握った。
小ぶりながらも本物の石窯を備えた街の小さなピッツェリア。一人でやっているから大した売上でもないけれど、それでも気に入って通ってくれる人はいる。
彼女はそんな客の一人だった。
よほどピザが好きなのか、週に一度は姿を見せる。いつも一人で来ては嬉しそうに幸せそうに食べる姿が微笑ましくて、こっそり厨房から眺めるうちに、いつしか彼女が店に来るのを心待ちにするようになっていた。
Sサイズのマルゲリータとジンジャーエールの組み合わせがお気に入り。夜に来ることは滅多にないけれど、その時はジンジャーエールがワインに変わることもある。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
「こんにちは。えーと今日は……照焼チキンピザにしてみようかな」
「おや、珍しい変化球ですね。お飲み物はジンジャーエールでよろしいですか?」
恥ずかしそうに頷く笑顔を噛みしめながら、僕は厨房に戻って彼女の注文したピザを作り始めた。
丸めて発酵させたピザ生地を素早く伸ばして自家製の照焼ソースをたっぷりと塗り、豪勢にトッピングを散らす。本当は駄目なんだけれど、彼女のピザはいつだってチーズもトッピングもマシマシだ。
「お待たせしました、照焼チキンピザです」
「美味しそう! マルゲリータは大好きだけど、たまに違うピザも食べたくなるんですよね」
「判ります。僕も実はマルゲリータがいちばん好きですが、たまに別の味を試したくなりますよ。でも結局、また元に戻るんですけど」
ほんとそう、と彼女が笑う。自分の作ったピザを喜んで食べてくれる彼女の笑顔を見るだけで、何とも幸せな気分になれる。
でもピザの裏に、実は秘かに小さなハートが描かれていることを彼女は知らない。
彼女のためのピザ生地を伸ばす時、打ち粉で白くなった指先で、こっそりハート型のくぼみを入れるようになったのはいつからだっただろうか。その後ひっくり返して、表にソースやトッピングをのせる。我ながらちょっとキモいかと苦笑しつつ。でも元来消極的な僕には、それしか想いを表す術がなかった。
一日の営業が終わり、灯りを落とした店の中で、僕はぼんやりと考えにふけった。
どうしよう、いっそ思い切って気持ちを打ち明けてみようか。でも玉砕したら、もう彼女は店に来てくれないかもしれない。
弱気の虫が頭をもたげて思わず溜息をついた刹那、昼間のささやかな会話が頭に甦る。そうだ、絶対NOとは限らない。よし、今度ほかのお客さんがいない時に……
がらんとした店の中で、僕は静かに決意を込めた。
「こんばんは」
ある日、珍しく夜に現れた彼女の姿を見た僕は思わず目を疑った。あまりの衝撃に危うく手にしたトレイを落としそうになる。
――二人……?
彼女の横には見知らぬ男性が立っていた。二人の間の距離からして、相当に近しい間柄であることは容易に想像がつく。
なぜ今になって……これまで一度も……!
いつもより大きいMサイズのマルゲリータを作る手が微かに震えているのが、自分でも判る。誰かと向かい合ってピザをシェアする彼女は、いつにも増して幸せそうだった。
「今日は珍しく二人で来ました。彼、ピザとかあんまり好きじゃないんだけど、ここのは絶対美味しいからって説得して、ようやく連れてきたんです。そうしたらやっぱり、すごく気に入ったみたいで」
向かいの男性が照れくさそうに笑う。
「それでもう一枚食べたいんですって。そうね、この前の照焼チキンピザをお願いします」
いつもどおりの彼女の笑顔が眩しくて、そそくさと厨房へ戻った僕は、ひとり苦笑いを浮かべた。
――結局、僕の一人相撲だったか。
ふっくりと膨らんだ生地を伸ばす手が、ふと止まる。これが最後だ。
僕は小さなハートをそっとピザの裏に刻んで、くるりと返した。いつも以上にたっぷりトッピングをのせて、薪の火が躍る石窯でこんがりと焼き上げる。
とろりと甘辛い照焼ソースと芳ばしいチキンの香りに、二人が歓声を上げた。
「すごい! ほらね、美味しそうでしょ?」
「生地も照焼ソースも自家製です。どうぞ、召し上がってみてください」
顔を輝かせて手を伸ばす二人を前に、僕は精一杯、もてなしの笑顔を浮かべる。
ピザの裏に描いたハートが、胸の奥の痛みと共に、ぱきりと切なく千切れていった。
(了)
厨房の片隅で粉を捏ねながら、僕は心の中で小さく拳を握った。
小ぶりながらも本物の石窯を備えた街の小さなピッツェリア。一人でやっているから大した売上でもないけれど、それでも気に入って通ってくれる人はいる。
彼女はそんな客の一人だった。
よほどピザが好きなのか、週に一度は姿を見せる。いつも一人で来ては嬉しそうに幸せそうに食べる姿が微笑ましくて、こっそり厨房から眺めるうちに、いつしか彼女が店に来るのを心待ちにするようになっていた。
Sサイズのマルゲリータとジンジャーエールの組み合わせがお気に入り。夜に来ることは滅多にないけれど、その時はジンジャーエールがワインに変わることもある。
「こんにちは、いらっしゃいませ」
「こんにちは。えーと今日は……照焼チキンピザにしてみようかな」
「おや、珍しい変化球ですね。お飲み物はジンジャーエールでよろしいですか?」
恥ずかしそうに頷く笑顔を噛みしめながら、僕は厨房に戻って彼女の注文したピザを作り始めた。
丸めて発酵させたピザ生地を素早く伸ばして自家製の照焼ソースをたっぷりと塗り、豪勢にトッピングを散らす。本当は駄目なんだけれど、彼女のピザはいつだってチーズもトッピングもマシマシだ。
「お待たせしました、照焼チキンピザです」
「美味しそう! マルゲリータは大好きだけど、たまに違うピザも食べたくなるんですよね」
「判ります。僕も実はマルゲリータがいちばん好きですが、たまに別の味を試したくなりますよ。でも結局、また元に戻るんですけど」
ほんとそう、と彼女が笑う。自分の作ったピザを喜んで食べてくれる彼女の笑顔を見るだけで、何とも幸せな気分になれる。
でもピザの裏に、実は秘かに小さなハートが描かれていることを彼女は知らない。
彼女のためのピザ生地を伸ばす時、打ち粉で白くなった指先で、こっそりハート型のくぼみを入れるようになったのはいつからだっただろうか。その後ひっくり返して、表にソースやトッピングをのせる。我ながらちょっとキモいかと苦笑しつつ。でも元来消極的な僕には、それしか想いを表す術がなかった。
一日の営業が終わり、灯りを落とした店の中で、僕はぼんやりと考えにふけった。
どうしよう、いっそ思い切って気持ちを打ち明けてみようか。でも玉砕したら、もう彼女は店に来てくれないかもしれない。
弱気の虫が頭をもたげて思わず溜息をついた刹那、昼間のささやかな会話が頭に甦る。そうだ、絶対NOとは限らない。よし、今度ほかのお客さんがいない時に……
がらんとした店の中で、僕は静かに決意を込めた。
「こんばんは」
ある日、珍しく夜に現れた彼女の姿を見た僕は思わず目を疑った。あまりの衝撃に危うく手にしたトレイを落としそうになる。
――二人……?
彼女の横には見知らぬ男性が立っていた。二人の間の距離からして、相当に近しい間柄であることは容易に想像がつく。
なぜ今になって……これまで一度も……!
いつもより大きいMサイズのマルゲリータを作る手が微かに震えているのが、自分でも判る。誰かと向かい合ってピザをシェアする彼女は、いつにも増して幸せそうだった。
「今日は珍しく二人で来ました。彼、ピザとかあんまり好きじゃないんだけど、ここのは絶対美味しいからって説得して、ようやく連れてきたんです。そうしたらやっぱり、すごく気に入ったみたいで」
向かいの男性が照れくさそうに笑う。
「それでもう一枚食べたいんですって。そうね、この前の照焼チキンピザをお願いします」
いつもどおりの彼女の笑顔が眩しくて、そそくさと厨房へ戻った僕は、ひとり苦笑いを浮かべた。
――結局、僕の一人相撲だったか。
ふっくりと膨らんだ生地を伸ばす手が、ふと止まる。これが最後だ。
僕は小さなハートをそっとピザの裏に刻んで、くるりと返した。いつも以上にたっぷりトッピングをのせて、薪の火が躍る石窯でこんがりと焼き上げる。
とろりと甘辛い照焼ソースと芳ばしいチキンの香りに、二人が歓声を上げた。
「すごい! ほらね、美味しそうでしょ?」
「生地も照焼ソースも自家製です。どうぞ、召し上がってみてください」
顔を輝かせて手を伸ばす二人を前に、僕は精一杯、もてなしの笑顔を浮かべる。
ピザの裏に描いたハートが、胸の奥の痛みと共に、ぱきりと切なく千切れていった。
(了)