第15回「小説でもどうぞ」最優秀賞 暗闇/河音直歩
第15回結果発表
課 題
表と裏
※応募数212編
「暗闇」河音直歩
秋の日差しが正面玄関いっぱいに降り注いでいる。重要な契約交渉の日には縁起のよい晴天だった。広瀬香澄は、会社一階のエントランスの壁際の小さな陰に身体を滑りこませ、上司と後輩を待っていた。右手に重い紙袋を提げ、光の中に出ないよう脚を揃えている。太陽は苦手だ。怖いときもある。罪悪感がいつの間にか、彼女をそう変えてしまっていた。
合流した部長の渡辺が、大福の入っている紙袋を引き取った。雑談で偶然耳にした相手の重役の好物で、休日、行列に並び手に入れたものだ。部長指示ではない。しかし意外にも思わなかっただろう。いつも先回りして、相手を喜ばせる。香澄がそういう女だと彼はよく知っている。二人は、不倫関係にあった。
「いつも気が利くな。ありがとう」
眩しさに顔を顰め手で庇をつくった渡辺の、その共犯者めいた仕草のほうに、彼女は満足を覚える。自分だけが罪の意識を負っている感覚は持ちたくない。ちっぽけな女だと思う。
仲は、前の彼氏と別れた直後からで三年になる。恋愛の激しい時期は過ぎた。しかし、妻を置いて自分へ走る男がいる、しかもそれが社内で最も尊敬を集める優秀な上司であるということは、今日まで香澄を一人の女として立たせる力であり続けていた。不健全でも、初めて自分に価値がついた。そう思えた。だから相手が強く握る手を、握り返していたい。
契約交渉を成功させた一行は、上機嫌でタクシーに乗り込んだ。車は落ち葉の道を進み、時折、秋の風が窓を揺らしている。
「山口もよく頑張ったな。いいプレゼンだった。俺が若い時よりうんと肝が据わってる」
山口は微笑んで、香澄の方にも振り向き、
「お二人のおかげです。広瀬さんの先方への気遣いで、本当に場が柔らかくなって」
香澄も彼女が好きだ。自分とは違い、いつも堂々として明るく、清々しい。
「山口さんが作った資料がとてもよかったから、安心して他のことに注意が向けられたの」
車は八重洲口の大通りに出た。すると、
「あ、部長、ここでしたね。この前、奥さんとお子さんとご一緒に、ばったり会った――」
香澄は反射的に渡辺を見た。別居中の妻とは三年以上顔も合わせていないと聞いていた。
「秋の沖縄旅行、私も行ってみたいです。玲香ちゃんは、ちゃんと海で泳げましたか」
「古い恩人に呼ばれてね、急用だったんだ。それはそうと、無事成約したお祝いに、今夜、部内で打ち上げをしたいんだが――」
渡辺は珍しく強い口調だったが、こちらを見るわけでもない。香澄も、流れていく窓の景色だけを見ていた。
空には黒い雲があらわれていた。小さな雨粒が窓に弾け、次第に本降りになった。
「今日はお疲れさまでした。」
そう言いながらピザの空箱を畳む山口へ、香澄も労いの言葉をかけた。会議室はまだ酒の匂いが残っている。気持ちが落ち着かない香澄は、酔いもしなかった。金曜は彼が家に来る日だ。夜遅く、監視カメラのない裏の通用口からそっと出て、タクシーで家へ直行する。渡辺はデスクに戻って仕事をしているので、今夜もそのつもりだろう。尋ねたいことは山ほどある。でも結局、彼の言葉を信じてしまうだろうという予感も、香澄にはある。
山口はテーブルへ視線を落とし、布巾で拭きはじめた。そして、
「先輩、このあとどうされるんですか」
鋭い声に、香澄はどきりとした。
「部長、奥さんと幸せそうでしたよ。仕事ができてかっこよくて、尊敬してますけど、私、卑怯だと思います。すみません、私、知ってます。先輩にはもったいないです、あんな人」
自分の薄い胸へ、軽いひと刺しで穴が開いた気がした。羞恥心以外に悪い感情は湧かなかった。香澄は、ありがとう、とだけ言った。
静かな館内を通り、香澄は渡辺より先に階下へ降りた。裏の通用口は、取り壊し予定の立ち入り禁止区域にある。ガラス張りで清潔な正面玄関とは異なり、黴や埃にまみれた陰鬱な場所だ。三年前のあの日から、二人は必ずここを通り、秘密の夜を重ねてきたのだった。
裏口は思いのほか冷え切っている。自分の胸にもここと同じような、おぞましい暗黒がある。そんな思いが急に香澄へ迫ってきた。真っ暗闇の中で、彼女は上着を掻き合わせた。
スマートフォンが震えた。渡辺からだ。
「エントランスで待ってる」
ああ、そうか。彼女は目を閉じ、息を吐いた。呼吸を止めてもう一度読んでみた。やはり、彼はもう、ここを通るつもりがないのだとわかった。自分もそう望んでいただろうか。そうかもしれない。まだよくわからない。
しかし香澄はさっと踵を返すと、決して振り向こうともせず、ハイヒールの足音を響かせながら、暗闇を抜けて歩いて行くのだった。
(了)
合流した部長の渡辺が、大福の入っている紙袋を引き取った。雑談で偶然耳にした相手の重役の好物で、休日、行列に並び手に入れたものだ。部長指示ではない。しかし意外にも思わなかっただろう。いつも先回りして、相手を喜ばせる。香澄がそういう女だと彼はよく知っている。二人は、不倫関係にあった。
「いつも気が利くな。ありがとう」
眩しさに顔を顰め手で庇をつくった渡辺の、その共犯者めいた仕草のほうに、彼女は満足を覚える。自分だけが罪の意識を負っている感覚は持ちたくない。ちっぽけな女だと思う。
仲は、前の彼氏と別れた直後からで三年になる。恋愛の激しい時期は過ぎた。しかし、妻を置いて自分へ走る男がいる、しかもそれが社内で最も尊敬を集める優秀な上司であるということは、今日まで香澄を一人の女として立たせる力であり続けていた。不健全でも、初めて自分に価値がついた。そう思えた。だから相手が強く握る手を、握り返していたい。
契約交渉を成功させた一行は、上機嫌でタクシーに乗り込んだ。車は落ち葉の道を進み、時折、秋の風が窓を揺らしている。
「山口もよく頑張ったな。いいプレゼンだった。俺が若い時よりうんと肝が据わってる」
山口は微笑んで、香澄の方にも振り向き、
「お二人のおかげです。広瀬さんの先方への気遣いで、本当に場が柔らかくなって」
香澄も彼女が好きだ。自分とは違い、いつも堂々として明るく、清々しい。
「山口さんが作った資料がとてもよかったから、安心して他のことに注意が向けられたの」
車は八重洲口の大通りに出た。すると、
「あ、部長、ここでしたね。この前、奥さんとお子さんとご一緒に、ばったり会った――」
香澄は反射的に渡辺を見た。別居中の妻とは三年以上顔も合わせていないと聞いていた。
「秋の沖縄旅行、私も行ってみたいです。玲香ちゃんは、ちゃんと海で泳げましたか」
「古い恩人に呼ばれてね、急用だったんだ。それはそうと、無事成約したお祝いに、今夜、部内で打ち上げをしたいんだが――」
渡辺は珍しく強い口調だったが、こちらを見るわけでもない。香澄も、流れていく窓の景色だけを見ていた。
空には黒い雲があらわれていた。小さな雨粒が窓に弾け、次第に本降りになった。
「今日はお疲れさまでした。」
そう言いながらピザの空箱を畳む山口へ、香澄も労いの言葉をかけた。会議室はまだ酒の匂いが残っている。気持ちが落ち着かない香澄は、酔いもしなかった。金曜は彼が家に来る日だ。夜遅く、監視カメラのない裏の通用口からそっと出て、タクシーで家へ直行する。渡辺はデスクに戻って仕事をしているので、今夜もそのつもりだろう。尋ねたいことは山ほどある。でも結局、彼の言葉を信じてしまうだろうという予感も、香澄にはある。
山口はテーブルへ視線を落とし、布巾で拭きはじめた。そして、
「先輩、このあとどうされるんですか」
鋭い声に、香澄はどきりとした。
「部長、奥さんと幸せそうでしたよ。仕事ができてかっこよくて、尊敬してますけど、私、卑怯だと思います。すみません、私、知ってます。先輩にはもったいないです、あんな人」
自分の薄い胸へ、軽いひと刺しで穴が開いた気がした。羞恥心以外に悪い感情は湧かなかった。香澄は、ありがとう、とだけ言った。
静かな館内を通り、香澄は渡辺より先に階下へ降りた。裏の通用口は、取り壊し予定の立ち入り禁止区域にある。ガラス張りで清潔な正面玄関とは異なり、黴や埃にまみれた陰鬱な場所だ。三年前のあの日から、二人は必ずここを通り、秘密の夜を重ねてきたのだった。
裏口は思いのほか冷え切っている。自分の胸にもここと同じような、おぞましい暗黒がある。そんな思いが急に香澄へ迫ってきた。真っ暗闇の中で、彼女は上着を掻き合わせた。
スマートフォンが震えた。渡辺からだ。
「エントランスで待ってる」
ああ、そうか。彼女は目を閉じ、息を吐いた。呼吸を止めてもう一度読んでみた。やはり、彼はもう、ここを通るつもりがないのだとわかった。自分もそう望んでいただろうか。そうかもしれない。まだよくわからない。
しかし香澄はさっと踵を返すと、決して振り向こうともせず、ハイヒールの足音を響かせながら、暗闇を抜けて歩いて行くのだった。
(了)