第14回「小説でもどうぞ」佳作 本物/ライ麦
第14回結果発表
課 題
忘却
※応募数217編
「本物」ライ麦
夜八時。仕事を終えて、食卓についた清の前に、食べたことのない、青葉のサラダが運ばれた。「これはいったい?……」
「ヨモギ・サラダよ」妻のさおりは、胸をはった。「ヨモギはビタミン、ミネラル、食物繊維が豊富な【薬草】です」
「こんなに、たくさん?」
「山で採ってきたの」こともなげに、さおりは、植物図鑑をすべらせた。表紙に、【野草と毒草の見わけかた】と書いてある。
「許してくれ、さおり」清はすぐに頭をさげた。
「あやまっているのは、昨日の夜、キャバクラヘ行ったこと?」
「誤解されるような真似をした、おれが悪かった。でもあれは、絶対、浮気じゃない!」
「女の子の口紅で、Yシャツが真っ赤だったのに? 浮気じゃないの?」
「事故なんだ。トイレに立ったとき、つまずいてーーそのとき、支えて助けてくれた女の子の口紅がついたんだ。おれは酒が弱いから」
「だったら、なんの心配もなしに食べれるはずよ。私の特製ヨモギ・サラダを」
「ヨモギだったらいいけれど」清の顔から汗が吹きだした。「ヨモギとまちがえて、形のよく似た、別の植物を採ってしまったら大変だ。食べると痙攣する」
「ヨモギは、もぐさの原料よ。ヨモギの葉っぱの裏についてる、白い綿毛を乾燥させて、おチンチンにあてて火をつけるの。浮気の虫に効くわ。このお灸」
「知っている!」清は叫んだ。「先祖が、昭和の時代まで、もぐさの卸問屋をしていたから」
たしかに玄関に、【もぐさ卸問屋 ヨモギ堂】と墨で描いた、記念の板看板がかかっている。
「わたし、結婚前にいったわね。浮気をしたら、『死んでもらいます』って」
「助けてくれ! さおり」清は、硬直した。
「バカなこといわないで。警察が聞いたら変に思うわ」
「でも、さおり」
「早く食べないと、最愛の妻を疑ったかどで、あなたは離婚届をちょうだいします」
「お、お、おれが、正体不明のサラダを食べてみせれば、きみを信頼している証しになる。反対に、怖くて食べられないなら、二人の愛はもう…………終わりなのか?」
「命の終わりよ」つぶやく、さおり。
「そんなバカな!」
「あなたには二つの道がある。私のヨモギ・サラダを食べずに離婚を選択して、臆病者の汚名を着るか。それとも、結婚生活を維持するため、罪を認めて悶絶するか。安心して。119番はしてあげる」
「……食べるぞ、さおり。ほんとに食べるよ」
「ゴメン。ちょっと苦いかも」
口へ運びかけたフォークが、宙でとまった。「いま思い出したんだが……やっぱりあれは浮気だった。口紅がついたのは偶然じゃない。つまずいたとき、つい女の子を、おれのほうから抱きよせて……はずみとはいえ、スケベ心はあったと思う。もう二度と、キャバクラへは行きません」清は、白状した。
「だったら、よし」恐れ入った夫の手からフォークを奪い、さおりはサラダを咀嚼した。「毒なんか入ってないわ。正真正銘のヨモギ・サラダよ。おバカさん」
あぁ。いつのまにか股間をぬらした清は、「もぐさを商っていた、ひいおじいちゃんから、聞いたんだ。ヨモギを採取するときは、気をつけないと、形のよく似た、別の危ない植物を採ってしまう恐れがあるって。素人には、見わけがつかないから、注意……って」
「そのひいおじい様が、お若かったころ、シャツに口紅をつけて、苦い思いをされたことがあったそうね。いいえ、ひいおじい様だけじゃないわ。あなたのおじい様も、お父様も、やっぱり、お若かったころ、シャツに口紅をつけて、苦い思いをされたことがあったとか」
「まさか! さおりに入れ知恵したのは……」
「お義母様は、おばあ様から。おばあ様は、ひいおばあ様から。ひいおばあ様は、明治生まれの、ひいひいおばあ様から、知恵を授かった。夫の浮気を退治する、おいしいヨモギのお薬を。わたしは、お嫁入りしたその夜のうちにーーあなたのお父様とおじい様、ひいおじい様が、二度と浮気をなさらなかったのには、立派なわけがあったのよ」
「『良薬、口に苦し』だな。参った、参った」
この日を境に、清は妻の、【永遠の夫】となった、はずである。つながれた鎖は、代々の男たちが決して忘れてはならない家訓であり、道を誤らないための、正しい地図と羅針盤。
いいや。オヤジと違って、おじいちゃんと違って、ひいおじいちゃんと違って、おれならできる。おれは、ヤれる。ちょっとだけなら…………うそぶくそばから、「次はキノコよ」妻のささやきが寝物語に聞こえてくる。
そんなバカな。幻聴だ! 強弁する清は、まもなく、今度こそ 二度と思い出すことのかなわない、本物の忘却の淵に沈む。
(了)
「ヨモギ・サラダよ」妻のさおりは、胸をはった。「ヨモギはビタミン、ミネラル、食物繊維が豊富な【薬草】です」
「こんなに、たくさん?」
「山で採ってきたの」こともなげに、さおりは、植物図鑑をすべらせた。表紙に、【野草と毒草の見わけかた】と書いてある。
「許してくれ、さおり」清はすぐに頭をさげた。
「あやまっているのは、昨日の夜、キャバクラヘ行ったこと?」
「誤解されるような真似をした、おれが悪かった。でもあれは、絶対、浮気じゃない!」
「女の子の口紅で、Yシャツが真っ赤だったのに? 浮気じゃないの?」
「事故なんだ。トイレに立ったとき、つまずいてーーそのとき、支えて助けてくれた女の子の口紅がついたんだ。おれは酒が弱いから」
「だったら、なんの心配もなしに食べれるはずよ。私の特製ヨモギ・サラダを」
「ヨモギだったらいいけれど」清の顔から汗が吹きだした。「ヨモギとまちがえて、形のよく似た、別の植物を採ってしまったら大変だ。食べると痙攣する」
「ヨモギは、もぐさの原料よ。ヨモギの葉っぱの裏についてる、白い綿毛を乾燥させて、おチンチンにあてて火をつけるの。浮気の虫に効くわ。このお灸」
「知っている!」清は叫んだ。「先祖が、昭和の時代まで、もぐさの卸問屋をしていたから」
たしかに玄関に、【もぐさ卸問屋 ヨモギ堂】と墨で描いた、記念の板看板がかかっている。
「わたし、結婚前にいったわね。浮気をしたら、『死んでもらいます』って」
「助けてくれ! さおり」清は、硬直した。
「バカなこといわないで。警察が聞いたら変に思うわ」
「でも、さおり」
「早く食べないと、最愛の妻を疑ったかどで、あなたは離婚届をちょうだいします」
「お、お、おれが、正体不明のサラダを食べてみせれば、きみを信頼している証しになる。反対に、怖くて食べられないなら、二人の愛はもう…………終わりなのか?」
「命の終わりよ」つぶやく、さおり。
「そんなバカな!」
「あなたには二つの道がある。私のヨモギ・サラダを食べずに離婚を選択して、臆病者の汚名を着るか。それとも、結婚生活を維持するため、罪を認めて悶絶するか。安心して。119番はしてあげる」
「……食べるぞ、さおり。ほんとに食べるよ」
「ゴメン。ちょっと苦いかも」
口へ運びかけたフォークが、宙でとまった。「いま思い出したんだが……やっぱりあれは浮気だった。口紅がついたのは偶然じゃない。つまずいたとき、つい女の子を、おれのほうから抱きよせて……はずみとはいえ、スケベ心はあったと思う。もう二度と、キャバクラへは行きません」清は、白状した。
「だったら、よし」恐れ入った夫の手からフォークを奪い、さおりはサラダを咀嚼した。「毒なんか入ってないわ。正真正銘のヨモギ・サラダよ。おバカさん」
あぁ。いつのまにか股間をぬらした清は、「もぐさを商っていた、ひいおじいちゃんから、聞いたんだ。ヨモギを採取するときは、気をつけないと、形のよく似た、別の危ない植物を採ってしまう恐れがあるって。素人には、見わけがつかないから、注意……って」
「そのひいおじい様が、お若かったころ、シャツに口紅をつけて、苦い思いをされたことがあったそうね。いいえ、ひいおじい様だけじゃないわ。あなたのおじい様も、お父様も、やっぱり、お若かったころ、シャツに口紅をつけて、苦い思いをされたことがあったとか」
「まさか! さおりに入れ知恵したのは……」
「お義母様は、おばあ様から。おばあ様は、ひいおばあ様から。ひいおばあ様は、明治生まれの、ひいひいおばあ様から、知恵を授かった。夫の浮気を退治する、おいしいヨモギのお薬を。わたしは、お嫁入りしたその夜のうちにーーあなたのお父様とおじい様、ひいおじい様が、二度と浮気をなさらなかったのには、立派なわけがあったのよ」
「『良薬、口に苦し』だな。参った、参った」
この日を境に、清は妻の、【永遠の夫】となった、はずである。つながれた鎖は、代々の男たちが決して忘れてはならない家訓であり、道を誤らないための、正しい地図と羅針盤。
いいや。オヤジと違って、おじいちゃんと違って、ひいおじいちゃんと違って、おれならできる。おれは、ヤれる。ちょっとだけなら…………うそぶくそばから、「次はキノコよ」妻のささやきが寝物語に聞こえてくる。
そんなバカな。幻聴だ! 強弁する清は、まもなく、今度こそ 二度と思い出すことのかなわない、本物の忘却の淵に沈む。
(了)