第13回「小説でもどうぞ」選外佳作 長かった髪/屋敷葉
第13回結果発表
課 題
あの日
※応募数219編
選外佳作
「長かった髪」
屋敷葉
「長かった髪」
屋敷葉
助手席に座っている妻がダッシュボードから小田和正の歌詞カードを取り出している。断りもなく急にダッシュボードを開けられたので、適当に仕舞っておいた車検証やレシートが妻の赤いハイヒールの上になだれ落ちた。
「なんなのよもう。だらしないわねえ」
当然のように妻は怒り、運転している俺の肩を強く叩いた。ため息をつきながら、シートベルトを引っ張って、パンフレットを拾っている。
「あーやだやだ。酔っちゃうじゃん、もう」
と愚痴り、頼んでもないパンフレットの整理を勝手に始める。
「なあ、酔いそうなら適当に仕舞っておけよ。だいたいな、ダッシュボード開けるなら開けるって先に言ってくれよ」
「何よ。なんかやましい物でも隠してんの?」
「別に何も隠しちゃいねえけど……」
「焦っちゃって、別に興味ないけど」
妻は不満げにパンフレットをダッシュボードに投げ入れ、さっき取った歌詞カードを開いた。乾燥の目立つ下唇を突き出している。今朝コタツで食べたミカンのようだ。
車を走らせるたびに、イルネーションが窓の外を横切っていく。綺麗だが車内の空気と微塵もマッチしない。侘しさに追い打ちをかけるように、小田和正が高らかにサビを歌っている。妻はサイドガラスに頭をくっつけてそっぽを向いた。小刻みに動く膝は曲に合わせて動かしているのではなく、どうやら苛立ちからくる貧乏ゆすりのようだ。
「よく考えたら、この曲って変よね」
「何が」
「小田和正よ」
妻の話はいつも煮え切らなくて、意味がわからない。ひと息に言いたいことを言ってくれればいいものを。
「だから、小田和正の何がだよ」
「歌詞よ、歌詞」
妻は歌詞を見ろ、と言いたげに手に持った歌詞カードを俺に向けてくる。脇見運転なんて出来るわけないだろう。と内心で俺は呆れる。
「あの日、あの時、あの場所で、君に会えなかったら、僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま、ですって」
「名曲じゃないか」
「馬鹿じゃないの?」
「何が」
「当たり前じゃんって思わないの?」
「はい?」
「あの日、あの時、あの場所で、君に会えなかったら、僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま。ってそりゃそうじゃない。会ってないんだから」
「いや、そうだけど。小田和正は出会った奇跡を伝えたいんだよ。そんな現実的に考えるなよ」
「考えなさいよ。あんたはもっと現実的に」
いつもこうだ。若い頃、俺がカラオケで吉田拓郎の「結婚しようよ」を歌ったら、タンバリンを持って「ステキー!」と言った彼女はどこへ消えたんだろうか。
「お前こそ、頭で考えないで心で感じろよ。歌声も歌詞も最高じゃないか」
「いいえ、歌声に騙されてたのよ。よく考えたら大したこと言ってないじゃない。まるで、あんたに口説かれたときの私みたい」
妻が悔しそうに歌詞カードに爪を立てる。何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。いつから広がったのだろう。この夫婦の齟齬は。
「騙されたって何だよ」
「プロポーズしてくれた日のことよ。あんた、私になんて言ったか覚えてないの?」
「知らん」
「一生男前でいる、努力も怠らない、俺は絶対ハゲないし太らない。金もたくさん稼いでくるって言ったのよ!」
「おお……。そうだったな」
「だったら鏡見てみなさいよ!」
妻は激昂して、夜だというのに運転席のサンバイザーを勢いよく下げた。そこには小さな鏡が付いていて、罰の悪そうな俺の顔がありありと映っている。
「まあ、確かにハゲたな」
「太ってもいるわよ!」
「幸せか?」
「馬鹿じゃないの」
妻は俺の頭を思い切り叩いた。髪がないぶん地肌に痛みが走る。我ながら、ぺちっといい音を鳴らす頭だと思う。鏡に眉毛が映っていなければ、綺麗な半月みたいだ。
「もうすぐ着くんだから。ほらイルミネーションだぞ。綺麗じゃないか。頭皮もイルミも」
「へっ。とうとう、喋りもつまらなくなったのね」
悪態をつく妻のえくぼは昔のまま、意志を持たないのでそこだけ可愛い。
(了)
「なんなのよもう。だらしないわねえ」
当然のように妻は怒り、運転している俺の肩を強く叩いた。ため息をつきながら、シートベルトを引っ張って、パンフレットを拾っている。
「あーやだやだ。酔っちゃうじゃん、もう」
と愚痴り、頼んでもないパンフレットの整理を勝手に始める。
「なあ、酔いそうなら適当に仕舞っておけよ。だいたいな、ダッシュボード開けるなら開けるって先に言ってくれよ」
「何よ。なんかやましい物でも隠してんの?」
「別に何も隠しちゃいねえけど……」
「焦っちゃって、別に興味ないけど」
妻は不満げにパンフレットをダッシュボードに投げ入れ、さっき取った歌詞カードを開いた。乾燥の目立つ下唇を突き出している。今朝コタツで食べたミカンのようだ。
車を走らせるたびに、イルネーションが窓の外を横切っていく。綺麗だが車内の空気と微塵もマッチしない。侘しさに追い打ちをかけるように、小田和正が高らかにサビを歌っている。妻はサイドガラスに頭をくっつけてそっぽを向いた。小刻みに動く膝は曲に合わせて動かしているのではなく、どうやら苛立ちからくる貧乏ゆすりのようだ。
「よく考えたら、この曲って変よね」
「何が」
「小田和正よ」
妻の話はいつも煮え切らなくて、意味がわからない。ひと息に言いたいことを言ってくれればいいものを。
「だから、小田和正の何がだよ」
「歌詞よ、歌詞」
妻は歌詞を見ろ、と言いたげに手に持った歌詞カードを俺に向けてくる。脇見運転なんて出来るわけないだろう。と内心で俺は呆れる。
「あの日、あの時、あの場所で、君に会えなかったら、僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま、ですって」
「名曲じゃないか」
「馬鹿じゃないの?」
「何が」
「当たり前じゃんって思わないの?」
「はい?」
「あの日、あの時、あの場所で、君に会えなかったら、僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま。ってそりゃそうじゃない。会ってないんだから」
「いや、そうだけど。小田和正は出会った奇跡を伝えたいんだよ。そんな現実的に考えるなよ」
「考えなさいよ。あんたはもっと現実的に」
いつもこうだ。若い頃、俺がカラオケで吉田拓郎の「結婚しようよ」を歌ったら、タンバリンを持って「ステキー!」と言った彼女はどこへ消えたんだろうか。
「お前こそ、頭で考えないで心で感じろよ。歌声も歌詞も最高じゃないか」
「いいえ、歌声に騙されてたのよ。よく考えたら大したこと言ってないじゃない。まるで、あんたに口説かれたときの私みたい」
妻が悔しそうに歌詞カードに爪を立てる。何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。いつから広がったのだろう。この夫婦の齟齬は。
「騙されたって何だよ」
「プロポーズしてくれた日のことよ。あんた、私になんて言ったか覚えてないの?」
「知らん」
「一生男前でいる、努力も怠らない、俺は絶対ハゲないし太らない。金もたくさん稼いでくるって言ったのよ!」
「おお……。そうだったな」
「だったら鏡見てみなさいよ!」
妻は激昂して、夜だというのに運転席のサンバイザーを勢いよく下げた。そこには小さな鏡が付いていて、罰の悪そうな俺の顔がありありと映っている。
「まあ、確かにハゲたな」
「太ってもいるわよ!」
「幸せか?」
「馬鹿じゃないの」
妻は俺の頭を思い切り叩いた。髪がないぶん地肌に痛みが走る。我ながら、ぺちっといい音を鳴らす頭だと思う。鏡に眉毛が映っていなければ、綺麗な半月みたいだ。
「もうすぐ着くんだから。ほらイルミネーションだぞ。綺麗じゃないか。頭皮もイルミも」
「へっ。とうとう、喋りもつまらなくなったのね」
悪態をつく妻のえくぼは昔のまま、意志を持たないのでそこだけ可愛い。
(了)