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第13回「小説でもどうぞ」選外佳作 真夜中の迷子/楠守さなぎ

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第13回結果発表
課 題

あの日

※応募数219編
選外佳作
「真夜中の迷子」
楠守さなぎ
 深夜零時過ぎ、弱々しい街灯が照らす住宅街は静かすぎて、ただでさえ重い洋太の心を更に暗くさせる。疲れきった体を引きずるように、洋太は駅から家までの道を一人で歩いていた。
 朝から晩まで働いても、低賃金の身の上では生活も上向かない。毎日毎日単純作業の繰り返しで、なにも身につかず、歳の数だけが増えていく。「疲れた」。その一言を言う気力すら、最近は失われてきた。
 今はとにかく、早く帰って布団に倒れこみたい。そんなことをぼんやりと考えていた洋太の耳に、小さな音が飛び込んできた。無意識のうちに下を向いていた顔を上げると、電信柱の横に小さな影が見える。近づいてみると、それは小学校低学年くらいの男の子だった。先ほど聞こえた小さな音は、その子が漏らす、すすり泣きの声らしい。近くに親がいるのかと、洋太は一瞬辺りを見回したが、自分と少年以外は誰もいない。早く帰りたい気持ちはやまやまだったが、見過ごすこともできなかった。
「どうしたんだ?」
 驚かせないように、できる限り優しく声をかけると、しゃくりあげていた男の子はほんの少し顔を上げて、呟くように言った。
「……帰りたい」
 迷子、という言葉を脳裏に浮かべながら、洋太は疲労で鈍った頭を懸命に働かせる。
「住所とか分かる? 家の近くに目印になるものとかは?」
 洋太の問いかけに、子どもは突然ぴたりと泣き止んだ。そして遠くを見つめるような目つきになり
「田んぼ……。トンボが飛んでて……水の中にはオタマジャクシやカブトエビが泳いでた……」
 少年の語る風景は、どこか田舎っぽい。この辺に田んぼのある場所なんてあっただろうか。考えている間にも、少年の語りは続く。
「兄ちゃんに連れられて、網を持って用水路に行ったんだ。そこでザリガニ捕りを……僕はうまくできなかったんだけど、ザリガニがジャンプして、自分から網に入ってきてくれたんだ」
 おや? と思った次の瞬間、強いめまいが襲ってきて、洋太は反射的に目を閉じた。しばらくそうして、めまいが治まった頃におそるおそる目を開けると、視界いっぱいに青空が広がっていた。たった今まで夜の住宅街だったはずの場所は、蝉の声の降る広い道路に変わっている。右手には「森」と呼びたくなるような木々の生い茂る公園があり、そこが蝉の大合唱の音源となっているようだ。風が、土と水と緑の匂いを運んでくる。ここは……。
「おーい!」
 後方から声が聞こえる。どこか懐かしい、子どもの声。
「早く行こうぜ」
「……兄ちゃん」
 振り返ると、黒いキャップに半袖のTシャツ、短パンに虫取り網。絵に描いたような虫取り少年がそこにいた。二歳上の、洋太の兄だ。
 兄に連れられて、洋太は近くの田んぼへと駆けていく。嘘のように体が軽い。見下ろすと、洋太自身の体も子どもになっていた。
 田んぼの脇にしゃがんで水の中を覗き込むと、小さなしっぽをピコピコ動かして、オタマジャクシが泥の上を跳ねるように泳いでいくのが見えた。小さな命。それを目にしただけで、全身が震えるほどの興奮を覚えた。
「こっち!」
 いつの間にか用水路の際にいた兄が手招く。呼ばれるままに走り寄ると、用水路の途中に四角い井戸のような、水が溜まる場所があった。兄に促され、手渡された虫取り網をその四角に差し入れる。角にいる大きなザリガニはすぐそこに見えているのに、丸い網ではうまく捕らえることができない。何度も網で角をつついているうちに、洋太は惨めな気持ちになってきた。どんなに頑張っても報われない。それは洋太が毎日のように感じている感情だった。
 諦めて網を引き上げようとした、そのときだ。なにかから逃げようとしたのか、小さなザリガニがジャンプして網の中に入ってきた。引き上げた網に入っているザリガニの腹には、黒っぽい卵塊が付いている。
「すげぇ!」
 いつも自分の先を行く兄に無邪気に感心されて、誇らしさで胸がいっぱいになった。
 ふと横を見ると、迷子の少年がいる。
「あの日に、帰りたい」
 少年の目から零れた涙は、そのまま洋太の涙となった。次々と溢れる涙を腕で乱暴に拭うと、周囲はまた夜の住宅街に戻っていた。少年の姿はない。迷子になっていただけで、失くしたわけではない。洋太は自分に言い聞かせながら、夜道を急いだ。
(了)