第13回「小説でもどうぞ」佳作 諍いの種は尽きずとも/いちはじめ
第13回結果発表
課 題
あの日
※応募数219編
「諍いの種は尽きずとも」いちはじめ
「この前カレンダーを破ったばかりなのに」
男はリビングの壁に下げてあるカレンダーをゆっくりと引き破りながらつぶやいた。
「そうですね……。もう半年も過ぎたなんて、歳を取ると月日が経つのが早いですね」
ソファーでコーヒーを飲んでいた妻が、男の独り言に答えた。
男は肩越しにちらりと妻をうかがい、今日は機嫌がよさそうだと安堵した。機嫌が悪いと、そう、ええ、という言葉しか返さない。そしてだいたいは何故機嫌が悪いのか、さっぱり分からないから困るのだ。それでも一緒に暮らし始めたころは、その原因を探ろうとしたものだが、今では自然と機嫌が直るのを待つのが最良の手だと悟ってしまっていた。
「そういえば、あの日の準備は進んでます? 直前になって慌てるのは嫌ですよ」
少々非難めいた妻の言葉に男はドキッとした。あの日が近づいている? 何の話だ。しかしそれを聞く愚は避けねばならない。これまでそれでどんな目にあったことか。
男はとっさにこう答えた。
「ああ、それなら大丈夫、任せといて」
妻はコーヒーを飲み干すと、ベランダに出て観葉植物の手入れを始めた。
ベランダの妻の背中をカーテン越しに目にしながら、男はこれまでの記念日を辿った。
妻は妙に記念日にこだわる。もはや記念日オタクと言ってもいい。結婚記念日や家族の誕生日ならいざ知らず、自分の俳句が雑誌に初採用された日やら、男性アイドルグループの推しメンの誕生日やら、そんなものまで勝手に記念日にしてくる。そんなものを私が知り得るはずもないのに、話を振ってきては勝手に機嫌を悪くしている。そう憤慨してみたものの、妻の言ったあの日が何なのか突き止めないと大変なことになってしまう。
そして何の手掛かりもつかめぬまま数日間が過ぎた。
嫁いだ娘に頼ってもみたが、めぼしい情報は得られなかった。今、娘は臨月間近でそれどころではないのだ、致し方ない。
更に気がかりなのは、このところ妻の様子がちょっとおかしいことだ。今日も沈んだ様子でソファーに深く腰を落とし、表情も少し青ざめている。
「おい、どうした。何があった」
妻は無言で俯いたままだったが、しばらくしてやっと重い口を開いた。
半年ほど前、妻は資金繰りに困っていた知人に、先祖代々から伝わる家宝の宝石を貸し出した。それを担保に資金を調達するためだ。
男は初耳だったので大層驚いた。
宝石はほどなくして戻ってきたのだが、それを指輪にするため、宝飾店に依頼したところ、イミテーションだと連絡があったのだ。そんなはずはない。曾祖母の頃に鑑定を受けて本物であることは証明されている。しかし貸し出した知人に問い合わせてみても、知らぬ存ぜぬの一点張りで、妻はほとほと困り果てていたのだった。
「なぜ直ぐに私に相談しなかったんだ」
「お金の話なので、あなたには知られたくなかったのよ」
「家宝の宝石というのも初耳なのだが……」
「それは母から母へと代々受け継がれてきた家宝なの。結婚する時に祖母から話があったと思うけど……」
そう言えば、何か家系の話を長々とされたような記憶はあるが……。
「困ったわ、これじゃご先祖様に合わせる顔がないし、何よりあの日を迎えられない」
――宝石はあの日に関係があるのか。
「借りた宝石が思った以上の価値だったんで、大方目がくらんですり替えたんだろう。どこの誰だか知らんが許せん。後は俺に任せろ」
幸い男には弁護士や公安関係の知り合いも多く、早速あちこちに連絡を取り、事の収拾を図った。最初はしらを切っていた相手も、弁護士からの電話で態度を一変させ、事件はものの数日で解決した。
本物が戻ってきた日、妻は心底安堵した様子で男に感謝した。
「本当に助かりました。このことは最後まで秘密にしておきたかったけど、私だけではどうすることもできなかったでしょうから……」
「相談してくれてたら、すぐに解決できていたのに。これからは何かあったら相談しろよ」
そうするわ、と頷く妻に、ここぞとばかりに男は切りだした。
「ところであの日のことだが、お前も手伝ってくれると助かるんだが……」
男は妻の反応を窺った。
「そうね、一緒に準備する楽しみもあるわね」と妻はニコリと笑った。
――よし、うまくいった。
男は心の中でニンマリとした。だが、油断はできない。まだあの日が何なのか、そしてそれがいつなのか分かっていないのだから。
(了)
男はリビングの壁に下げてあるカレンダーをゆっくりと引き破りながらつぶやいた。
「そうですね……。もう半年も過ぎたなんて、歳を取ると月日が経つのが早いですね」
ソファーでコーヒーを飲んでいた妻が、男の独り言に答えた。
男は肩越しにちらりと妻をうかがい、今日は機嫌がよさそうだと安堵した。機嫌が悪いと、そう、ええ、という言葉しか返さない。そしてだいたいは何故機嫌が悪いのか、さっぱり分からないから困るのだ。それでも一緒に暮らし始めたころは、その原因を探ろうとしたものだが、今では自然と機嫌が直るのを待つのが最良の手だと悟ってしまっていた。
「そういえば、あの日の準備は進んでます? 直前になって慌てるのは嫌ですよ」
少々非難めいた妻の言葉に男はドキッとした。あの日が近づいている? 何の話だ。しかしそれを聞く愚は避けねばならない。これまでそれでどんな目にあったことか。
男はとっさにこう答えた。
「ああ、それなら大丈夫、任せといて」
妻はコーヒーを飲み干すと、ベランダに出て観葉植物の手入れを始めた。
ベランダの妻の背中をカーテン越しに目にしながら、男はこれまでの記念日を辿った。
妻は妙に記念日にこだわる。もはや記念日オタクと言ってもいい。結婚記念日や家族の誕生日ならいざ知らず、自分の俳句が雑誌に初採用された日やら、男性アイドルグループの推しメンの誕生日やら、そんなものまで勝手に記念日にしてくる。そんなものを私が知り得るはずもないのに、話を振ってきては勝手に機嫌を悪くしている。そう憤慨してみたものの、妻の言ったあの日が何なのか突き止めないと大変なことになってしまう。
そして何の手掛かりもつかめぬまま数日間が過ぎた。
嫁いだ娘に頼ってもみたが、めぼしい情報は得られなかった。今、娘は臨月間近でそれどころではないのだ、致し方ない。
更に気がかりなのは、このところ妻の様子がちょっとおかしいことだ。今日も沈んだ様子でソファーに深く腰を落とし、表情も少し青ざめている。
「おい、どうした。何があった」
妻は無言で俯いたままだったが、しばらくしてやっと重い口を開いた。
半年ほど前、妻は資金繰りに困っていた知人に、先祖代々から伝わる家宝の宝石を貸し出した。それを担保に資金を調達するためだ。
男は初耳だったので大層驚いた。
宝石はほどなくして戻ってきたのだが、それを指輪にするため、宝飾店に依頼したところ、イミテーションだと連絡があったのだ。そんなはずはない。曾祖母の頃に鑑定を受けて本物であることは証明されている。しかし貸し出した知人に問い合わせてみても、知らぬ存ぜぬの一点張りで、妻はほとほと困り果てていたのだった。
「なぜ直ぐに私に相談しなかったんだ」
「お金の話なので、あなたには知られたくなかったのよ」
「家宝の宝石というのも初耳なのだが……」
「それは母から母へと代々受け継がれてきた家宝なの。結婚する時に祖母から話があったと思うけど……」
そう言えば、何か家系の話を長々とされたような記憶はあるが……。
「困ったわ、これじゃご先祖様に合わせる顔がないし、何よりあの日を迎えられない」
――宝石はあの日に関係があるのか。
「借りた宝石が思った以上の価値だったんで、大方目がくらんですり替えたんだろう。どこの誰だか知らんが許せん。後は俺に任せろ」
幸い男には弁護士や公安関係の知り合いも多く、早速あちこちに連絡を取り、事の収拾を図った。最初はしらを切っていた相手も、弁護士からの電話で態度を一変させ、事件はものの数日で解決した。
本物が戻ってきた日、妻は心底安堵した様子で男に感謝した。
「本当に助かりました。このことは最後まで秘密にしておきたかったけど、私だけではどうすることもできなかったでしょうから……」
「相談してくれてたら、すぐに解決できていたのに。これからは何かあったら相談しろよ」
そうするわ、と頷く妻に、ここぞとばかりに男は切りだした。
「ところであの日のことだが、お前も手伝ってくれると助かるんだが……」
男は妻の反応を窺った。
「そうね、一緒に準備する楽しみもあるわね」と妻はニコリと笑った。
――よし、うまくいった。
男は心の中でニンマリとした。だが、油断はできない。まだあの日が何なのか、そしてそれがいつなのか分かっていないのだから。
(了)