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W選考委員版「小説でもどうぞ」第2回 選外佳作 誰にも言えない/吉田猫

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
選外佳作
「誰にも言えない」
吉田猫
 昼休みぐらいは外の空気を吸わないとやってられない、と遠山健吾はいつも思う。
 漬物工場の中庭で体に染み付いた匂いを吐き出すように深呼吸をする。ベンチに座り、空を見上げて煙草に火をつけ目を閉じた。隣に誰かが腰を下す音が聞こえた。目を開けると少し頭髪が薄く、妙に細身の男がこちらを見ていた。黒縁の眼鏡の奥に見える、ぬめりとした笑みが嫌悪感を抱かせる。この中年の男は確か田崎という名の新入りの作業員だ。「あんた、歳はいくつになるんや?」と田崎が唐突に訊いた。
「もうすぐ三十二になるけど」
 怪訝な表情で健吾は答えた。
「そうか、三十過ぎとんのか。そんなら覚えとるんやないか?」
 何を? と思ったが、自分より年配とはいえ全く親しくもない田崎の横柄な口調が不愉快で返事もせずに煙草をもう一口吸った。
「十五年前に楢崎市で古物商が行方不明になった事件、覚えてないか?」
 そんな古いどこかの地方で起きた事件のことを訊かれても知っているはずがないだろう。健吾は煙草をくわえたまま、あしらうように軽く首を振った。
「そうか、まあええわ知らんでも。その古物商な……ワシが殺して山に埋めたってん」
「はあ?」思わず田崎に顔を向けた。この男は何を言いい出すのだ?
「あんた刑務所帰りなのか?」あきれて思わず訊き返した。
「マエなんかあるかいな! ワシは健全な市民やで、これでも。せやけど、これは誰も知らん秘密なんや。そのオヤジな、今だに行方不明のままやけど、実は山で眠っとるわ」
「なんで俺にそんな話するんだよ、あんた」
「わしな、兄ちゃんのこと、ここに来たときからずっと見とったんやけどな、あんたのその目、見てるとな、なんや他人みたいな気がせえへんのや。ほれ誰にもあるやろ、とっておきの秘密、仲間に喋りとうなることが」
「おっさん! いい加減なこと言うなよ。言っていいことと悪いことがあるだろうが!」
「嘘ちゃうで、ほんまのことや。古物商のことも、あんたが他人に見えんこともな」
「ふざけんなよ! 糞ジジイが!」健吾は吸いかけの煙草を投げ捨て踏み消すと、田崎を睨みつけるようにして席を立った。
 屋内に向かう健吾の背中に田崎の言葉が追いかけてくる。
「そうや、その目や。やっぱあんた、ワシらの仲間や!」
 なんだあいつは、気味の悪い奴だとは思ってはいたが突然何を言い出すかと思えば、自分は人殺しでお前も仲間だと言いやがる。不快な気分が健吾の胸一杯に込み上げてくる。
 休憩が終わるまでにまだ二十分ある。自販機で缶コーヒーを買って社員食堂の椅子にしょうがなく戻ってきた。食堂のテレビの音と騒音のようなおしゃべりの騒めきがこの言いようのない不快な気持ちを紛らわせてくれるか、と考えたがうまくはいかない。田崎の言葉が突き刺さってくる。くそっ、俺は仲間なんかじゃない……。嫌な予感がする。あれが始まってしまうような気がしてきた。頭の中心にキリリと痛みが一瞬走った。健吾は動悸が早くなるのを感じた。ああ、だめだ、思い出してしまう。苦労して心の奥に閉じ込めた記憶がまた沸き上がってくる。これを思い出すとしばらく動けなくなってしまうことを健吾は何度も経験してきた。目の前が白くなる。
 古い映画が始まるように頭の中で記憶が甦り始めた。仲のよかった良ちゃんと放課後、裏山で遊んだ。西の空に夕方の気配を感じたころ、気が付くと良ちゃんがいなくなっていた。声を張り上げて探したのだ。それ以上どうしよもないじゃないか。怖くなって家に走って帰ってしまった。二人で山に遊びに行ったことは誰も知らない。恐ろしくて親に話すこともできなかった。その日の夜には子供が帰ってこないと近所で騒ぎが起きていた。怖くて今さら言えなかった。二週間後、良ちゃんは遺体で見つかった。山で足を滑らせ沢に滑落してしまったのだ。早く見つかればきっと助かったのに、と学校でも皆が悲しんだ。その年の運動会と遠足は中止になり健吾は誰にも言えないあの日の秘密を胸に閉じ込めた。
 始業のチャイムがなる。既に食堂には人の気配がない。健吾は沼のような記憶から抜けることができなかった。肩を叩かれ、はっと振り返ると田崎があの笑みを浮かべていた。
「よう相棒、どないしたん。仕事始まっとるで。はよせんと課長のヤツに叱られるで」
       舌をちろりと出して耳元で田崎が囁く。
「後であんたの秘密ゆっくり聞いたるわ。話しとうてたまらんのやろ、顔に書いてるわ。こりゃ楽しみやなあ。ほな、わし先行くで」
 離れていく田崎の後ろ姿に、すがりつくように呼びかけようとしたが、健吾は声を出すこともできなかった。
(了)