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W選考委員版「小説でもどうぞ」第2回 選外佳作 秘密のあつこさん/静輝陽

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
選外佳作
「秘密のあつこさん」
静輝陽
「アッコちゃん、おはようございます」
「アッコちゃーん、いってきまーす」
「はい、おはよう。いってらっしゃい」
 マンションのエントランスの掃き掃除をしながら、居住者の子供たちを送り出す。新一年生はランドセルがでかく気の毒になるが、小学六年生は逆に小さく見える。それだけ成長著しいのだろうけど。マンションの植栽もだいぶ成長した。そろそろ剪定かな。
 昨年春に五十歳になり、長年勤めた会社を早期退職してマンション管理会社に再就職した。今春、一年雇用契約が更新された。
 今日午後から親会社の不動産会社の本社で集合研修がある。最近、集中力が落ちて理事長から注意を受けたばかりので、気分転換にちょうど良いかも。
 研修での清掃、設備、植栽に関する座学や実技は気晴らしになる。そのあとの親睦会は情報収集や先輩からのアドバイスがもらえて結構楽しい。
 マンション掲示板に管理人が午後不在になる旨の詫び文を掲示してから本社に向かう。
 研修室では管理人の担当マネージャーごとにグループ分けされた。メンバーは年配者が多く、私でも若手の部類となる。
 清掃実習は掃除能力検定一級の先生が舞うような手本を見せてくれた後、床モップ掛けやスクイージー窓拭きのスキルアップ。脚立を使っての電球交換作業。洗剤や害虫駆除薬剤の学習、家庭でも結構役立ちそう。
 親睦会の会場は近くの居酒屋が予約されていた。大座敷にテーブルと座布団が数列並べられ、マネージャー中心に同じグループで固まった席に着く。
 マネージャー全員の抱負宣言後に部長の乾杯で宴会が始まった。不況の煽りを受けてメニューは昨年より寂しく、各テーブルでは短時間で食べ尽くされて酒ばかりが残った。
 仕事柄知り得る居住者の個人情報の漏洩は厳禁だが、アルコールが潤滑油となり仲間内とあって気が緩み、際どい情報が飛び交う。
 リーダー格から各グループで情報を独占してないで秘密共有といこうじゃないかと呼びかけられた。防災グッズとして土産にもらった百目蝋燭を管理人たちがテーブルに立てて点火する。担当マンションの話が終わる度に、一本ずつ吹き消していくことに決まる。
 宴会場が消灯され、皆の顔に蝋燭の炎の影が揺れる。
「うちは防犯カメラが古くて画像が悪いんだけど、この前すごいもん見ちゃったよ。エレベータの中でお隣さん同士の旦那が抱き合ってキスしていたんだ。これも浮気って言うのかね」
「うちは三件も自殺があってさ。飛び降り、首つり、ガス自殺。ああいうのも伝染するのか?」
「一階の居住者で洗濯物の下着泥棒にあった奥さんがいて、口外するなって言われたんだけど。被害者本人が近所で自慢げに喋り回っているんだ。だけど不思議なんだ。両隣の奥さんがべっぴんで、犯人は部屋間違えたんじゃねえのって思うんだ。ここだけの話」
「泥棒っていやあ、駐輪場から自転車が盗まれた。周りに施錠してない新しいのがあったのに古いのが盗まれた。これもマニアかもしれねえよ」
 私はトイレが近いので出入り口付近に陣取っていたため、話す順番が最後になった。私の席以外は既に暗闇に沈んでいる。
「担当マンションは築一年になり、着任した当時は新築でした。敷地内には古井戸があって、埋める前に溜まった水を吸い上げた際に手鏡が引き上げられたそうです。手鏡としては大きめで装飾が珍しかったため、捨てられずに備蓄倉庫に保管されてました。今は管理人室の受付小窓の上の壁に掛けられてます。
 今日、戸締りを終えて退室する際、何気なく鏡を見たんです。鏡に話しかけられた気がしたもので。正面に寄って見ると、老けた私が映っているだけでした。私は、若い頃に戻りたいわって思わずつぶやきました。すると、鏡の中の私が若返った。ように一瞬見えました。また、仕事に情熱を燃やせたらいいなとつぶやきました」
 突然、目の前の蝋燭の炎が天井に届くくらいに膨れ上がった。
 絶叫と悲鳴が交差する。
 扉に飛びついて開かないとわめき立てる者。炎にビールを掛ける者。壁の照明スイッチをパチパチ押す者。
 炎が暴れ回り、居酒屋が火事となった。
 私は救急隊員に担架で運び出される際、「鏡さん、私が願ったのは、そういうことじゃないのよ」とうわ言をいっていたそうだ。
 退院後に顔の火傷痕を整形したら若返って見え、小さなグループ会社に転職が決まり、正社員として採用された。マンション理事会からは、餞別にあの手鏡をプレゼントされた。
(了)