W選考委員版「小説でもどうぞ」第2回 佳作 秘密のない結婚生活/ナラネコ
「秘密のない結婚生活」ナラネコ
和樹と美香は結婚した。和樹は大学を出たが就職がうまくいかずバイト生活を送っている二十五歳の青年で、背は高からず、イケメンとはとても言えず、卒業したのは試験を受けたら誰もが合格できる五流の大学だった。そんな和樹が美香と結婚できたのは僥倖と言ってよかった。美香は世間で超一流と呼ばれている東京の名門私大をこの春卒業し、親に買い与えられた都内の高級マンションに住んでいたが、金は有り余るほどあるため、和樹とは別の意味で就職していなかった。また美香は街を歩けばすれ違うすべての男がふり向くといった美貌の持ち主だった。
二人が知り合ったのは、都内のネットカフェである。和樹は安アパート住まいで、ネットカフェのオープンシートでコーヒーを何杯もお代わりしながら、好きな漫画本のシリーズを読むのがささやかな楽しみだった。和樹が本棚の前で次に読む本を手に取ろうとしたとき、横から声を掛けてきたのが美香だった。和樹が読もうとした本を美香も好きだったというわけで、ネットカフェでそういった行動をとること自体滅多にないことだが、声を掛けてきたのがこういう場所でまず見かけないような美女だったので、和樹は驚いた。
この出会いをきっかけとして、二人はデートを重ね、やがて同棲するようになった。同棲といっても、和樹が安アパートを引き払い、美香のマンションに転がり込んだというだけの話だったのだが。
和樹が美香に夢中だったのは当然として、美香も和樹に心を奪われているようだった。二人は似合いのカップルとは言えないにしても、相思相愛の恋人だった。そして出会ってから三か月後に二人は結婚を決めたのだった。その時、美香は和樹に言った。
「結婚式は一年後にしましょ。私との結婚生活に、一年間あなたが耐えられたら本当に結婚を認めてもいいって、父が言うの」
「君じゃなくって、僕が?」
「そう。あなたが」
「そんな。今まで三か月間付き合って、何のトラブルもなかったじゃないか。僕は君を心から愛している。君が愛想をつかすなら別だけど、僕が耐えられなくなるなんて」
「ありがとう。それじゃ、一つだけお願いがあるんだけど、聞いてくれるかしら」
和樹は体を固くした。そりゃそうだ。何の取柄もない男がこんな女と何もなくて結婚できるはずがない。その願いとは何だろう。
「結婚するからには、二人の間の秘密はなしにしたいの。いいかしら」
和樹は拍子抜けした。元々彼は人に嘘をつくタイプではない。結婚後の秘密といえば女性関係だが、美香のような美女を妻にして浮気も何もあるはずがない。バイトは続けているが、美香からカードを渡され、小遣いは使い放題でいいことになっている。秘密にすることなんかないはずだ。
「大丈夫。約束するよ」
美香はにっこり笑い、二人の結婚生活は始まった。夕食の時。美香はいつも和樹のその日の出来事を聞きたがった。和樹がバイト先でのちょっとした失敗話をすると。美香は声を上げて笑った。
バイトが早く終わったある日、和樹はパチンコ屋に入った。パチンコは美香に会う前にやったきりである。久しぶりのパチンコは全く入らず、どんどん金が出て行く。三時間で八万円の出費だったが、金の心配はない。
夕食の時、和樹は少しためらったが、美香との約束を思い出し、明るく言った。
「今日は久しぶりのパチンコで八万円すっちゃったよ」
美香は楽しそうに笑った。
ある日、和樹は帰りにバイト仲間の田沢利恵と一緒になった。利恵は和樹が卒業した大学の後輩だったが、やはり就職が決まらず、ずるずるとバイト生活を続けていた。どちらからともなく誘い合って喫茶店に入り、他愛もない話で時間を潰した。夕食の時間、和樹はまた美香との約束を思い出し、
「今日はバイト仲間の女の子と、帰りにちょっとお茶を飲んで遅くなっちゃったよ」
美香はこの時も笑顔を見せた。
その一週間後、和樹は田沢利恵と飲みに行ったのだが、その場の流れで、二人はそのままホテルに入り関係を結んでしまった。夜中にマンションに帰り、ドアを開けると美香は待っていた。和樹は約束した通り、
「今日は、この前一緒だったバイトの女の子と、ホテルに入っちゃったよ」
美香はやはり朗らかに笑いながら、和樹の話を聞いていた。
和樹が美香に別れを切り出したのは、結婚九か月後だった。今、彼は田沢理恵と安アパートで一緒に暮らしている。
天上では、好奇心の強い女神が父の大神に八つ当たりしてこんなことを言っていた。
「人間と結婚するなんてことは、やめたわ」
(了)
二人が知り合ったのは、都内のネットカフェである。和樹は安アパート住まいで、ネットカフェのオープンシートでコーヒーを何杯もお代わりしながら、好きな漫画本のシリーズを読むのがささやかな楽しみだった。和樹が本棚の前で次に読む本を手に取ろうとしたとき、横から声を掛けてきたのが美香だった。和樹が読もうとした本を美香も好きだったというわけで、ネットカフェでそういった行動をとること自体滅多にないことだが、声を掛けてきたのがこういう場所でまず見かけないような美女だったので、和樹は驚いた。
この出会いをきっかけとして、二人はデートを重ね、やがて同棲するようになった。同棲といっても、和樹が安アパートを引き払い、美香のマンションに転がり込んだというだけの話だったのだが。
和樹が美香に夢中だったのは当然として、美香も和樹に心を奪われているようだった。二人は似合いのカップルとは言えないにしても、相思相愛の恋人だった。そして出会ってから三か月後に二人は結婚を決めたのだった。その時、美香は和樹に言った。
「結婚式は一年後にしましょ。私との結婚生活に、一年間あなたが耐えられたら本当に結婚を認めてもいいって、父が言うの」
「君じゃなくって、僕が?」
「そう。あなたが」
「そんな。今まで三か月間付き合って、何のトラブルもなかったじゃないか。僕は君を心から愛している。君が愛想をつかすなら別だけど、僕が耐えられなくなるなんて」
「ありがとう。それじゃ、一つだけお願いがあるんだけど、聞いてくれるかしら」
和樹は体を固くした。そりゃそうだ。何の取柄もない男がこんな女と何もなくて結婚できるはずがない。その願いとは何だろう。
「結婚するからには、二人の間の秘密はなしにしたいの。いいかしら」
和樹は拍子抜けした。元々彼は人に嘘をつくタイプではない。結婚後の秘密といえば女性関係だが、美香のような美女を妻にして浮気も何もあるはずがない。バイトは続けているが、美香からカードを渡され、小遣いは使い放題でいいことになっている。秘密にすることなんかないはずだ。
「大丈夫。約束するよ」
美香はにっこり笑い、二人の結婚生活は始まった。夕食の時。美香はいつも和樹のその日の出来事を聞きたがった。和樹がバイト先でのちょっとした失敗話をすると。美香は声を上げて笑った。
バイトが早く終わったある日、和樹はパチンコ屋に入った。パチンコは美香に会う前にやったきりである。久しぶりのパチンコは全く入らず、どんどん金が出て行く。三時間で八万円の出費だったが、金の心配はない。
夕食の時、和樹は少しためらったが、美香との約束を思い出し、明るく言った。
「今日は久しぶりのパチンコで八万円すっちゃったよ」
美香は楽しそうに笑った。
ある日、和樹は帰りにバイト仲間の田沢利恵と一緒になった。利恵は和樹が卒業した大学の後輩だったが、やはり就職が決まらず、ずるずるとバイト生活を続けていた。どちらからともなく誘い合って喫茶店に入り、他愛もない話で時間を潰した。夕食の時間、和樹はまた美香との約束を思い出し、
「今日はバイト仲間の女の子と、帰りにちょっとお茶を飲んで遅くなっちゃったよ」
美香はこの時も笑顔を見せた。
その一週間後、和樹は田沢利恵と飲みに行ったのだが、その場の流れで、二人はそのままホテルに入り関係を結んでしまった。夜中にマンションに帰り、ドアを開けると美香は待っていた。和樹は約束した通り、
「今日は、この前一緒だったバイトの女の子と、ホテルに入っちゃったよ」
美香はやはり朗らかに笑いながら、和樹の話を聞いていた。
和樹が美香に別れを切り出したのは、結婚九か月後だった。今、彼は田沢理恵と安アパートで一緒に暮らしている。
天上では、好奇心の強い女神が父の大神に八つ当たりしてこんなことを言っていた。
「人間と結婚するなんてことは、やめたわ」
(了)