W選考委員版「小説でもどうぞ」第2回 佳作 彼女のことが気になる/村木志乃介
「彼女のことが気になる」村木志乃介
改札を抜け、ホームに向かいながら鼓動が高鳴るのを感じた。間に合うか。気持ちは急くばかりで足はもつれた。
ホームにつくとすぐさま乗客の中に彼女の姿がないか目を走らせる。
いた! ベンチに腰掛け、爪を切っている。
こんなところで爪を切るとは……。私は彼女に見つからないように様子を見守る。
パチンと音を立て、爪が飛んでいるのがわかる。爪を切ったあと、ポケットティッシュを取り出した。今度はなにをするつもりだろうか? じっと見つめる。
ぷっと勢いよく鼻をかんだ。
そのティッシュはどうするつもりだ? ごくりと喉を鳴らす。
ポイっとくずかごに投げ入れた、かに見えたけど入らず。床に転がる。
おいっ、と思わず声が漏れた。すぐにでも回収したい。うずうずする気持ちをこらえ、私はじっと耐えた。
電車がホームに滑り込む。同時に彼女が立ち上がる。黒のスーツ姿でビジネスバッグを持っている。これから市内中心部にあるオフィスに通勤するのだ。
私は彼女がベンチから離れるのを確認すると全力で走った。
パラパラとまかれた爪はサクラエビのような柔らかいピンク色をしていた。きっとピンク色のマニキュアをしていたのだろう。ティッシュは湿っていた。周囲の視線が気になりながらもそれらをビニール袋に入れていく。
すべて回収したところで彼女を探した。すでに電車の中にいる。私も急いで飛び乗った。
三つの目の駅で彼女は降りた。私も同じ駅で降りると、彼女に気づかれないようにあとを追う。改札を抜け、百メートルほど歩いたところで、背の高いビルに彼女が入るのが見えた。
ここまでだ。これ以上あとをつけるわけにはいかない。それこそストーカーになってしまう。だれにも気づかれることなく、遠くから彼女を見守ることが私の生きがいであり、だれにも言えない秘密でもある。
とにかく彼女の身に危険がないようにつかず離れず見守るのだ。
ひとまず彼女の無事が確認できたから夕方まで仕事でもするか。本音としては彼女が仕事をする姿を見てみたいのだが。
私は踵を返し、会社へと向かう。退屈な仕事をするために。隣の駅まで戻る。
正直な話、日中はあまり仕事に集中できなかった。彼女のことが気になって仕方なかったからだ。
ようやく夕方を迎える。
彼女の仕事は残業が当たり前らしく定時に上がることはない。それでも万が一ということがある。私は定時に仕事を切り上げると彼女が働くビルに向かった。
するとどうだ。偶然にも彼女がビルから出てくるではないか。今日は定時に帰れたのだ。
「あれ、どうしたの? お父さん」
彼女が私に気がついた。
しまった。油断していた。まさか定時に終わると思っていなかったので堂々とビルの前まで来ていた。
どうしたの? と聞かれ、どう答えるか迷う。この春入社したばかりの娘のことが心配なあまり、その様子を行き帰りとバレないように見守っていた。とても言えるわけがない。
彼女は一人暮らしがしたいと言って実家から通わず、近くにワンルームマンションを借り、そこから通っているのだ。
どうしよう。やっぱり正直に「おまえが就職した会社を調べると、少しブラックなところもある会社のようだから、心が折れて電車に飛び込まれでもしたらお父さん悲しくて生きていけないから、それを未然に防ぐためにこうして行きと帰りにこっそりあとをつけていたんだよ」と言うべきだろうか。
所かまわず爪を切ったり、鼻をかんだりするような娘だけど、私に似てメンタルが弱いところがある。だから心配で仕方がなかった。
「うーん。じつはたまたま得意先がこのあたりにあってね。直帰するところだったんだよ」
けっきょく誤魔化した。おまえのことが心配なんだ、なんてやっぱり言えない。娘はもう立派な社会人。幼い子どもじゃない。
「ふぅん。そうなんだ」
よかった。娘は気がついていないみたいだ。
「少し飲んで帰るか?」
駅前に並ぶ赤ちょうちんに目をやり、娘を誘う。
「お父さんのおごりよね」
「もちろん」
話も聞いておいたほうがいい。やっぱり娘のことが心配だから。
今日のところはバレずに済んだ。いつまで隠し通せるか、それはわからないけど。
夕暮れの駅前は食欲をそそる匂いが漂う。私は娘と並んで歩く幸せを噛みしめている。
(了)
ホームにつくとすぐさま乗客の中に彼女の姿がないか目を走らせる。
いた! ベンチに腰掛け、爪を切っている。
こんなところで爪を切るとは……。私は彼女に見つからないように様子を見守る。
パチンと音を立て、爪が飛んでいるのがわかる。爪を切ったあと、ポケットティッシュを取り出した。今度はなにをするつもりだろうか? じっと見つめる。
ぷっと勢いよく鼻をかんだ。
そのティッシュはどうするつもりだ? ごくりと喉を鳴らす。
ポイっとくずかごに投げ入れた、かに見えたけど入らず。床に転がる。
おいっ、と思わず声が漏れた。すぐにでも回収したい。うずうずする気持ちをこらえ、私はじっと耐えた。
電車がホームに滑り込む。同時に彼女が立ち上がる。黒のスーツ姿でビジネスバッグを持っている。これから市内中心部にあるオフィスに通勤するのだ。
私は彼女がベンチから離れるのを確認すると全力で走った。
パラパラとまかれた爪はサクラエビのような柔らかいピンク色をしていた。きっとピンク色のマニキュアをしていたのだろう。ティッシュは湿っていた。周囲の視線が気になりながらもそれらをビニール袋に入れていく。
すべて回収したところで彼女を探した。すでに電車の中にいる。私も急いで飛び乗った。
三つの目の駅で彼女は降りた。私も同じ駅で降りると、彼女に気づかれないようにあとを追う。改札を抜け、百メートルほど歩いたところで、背の高いビルに彼女が入るのが見えた。
ここまでだ。これ以上あとをつけるわけにはいかない。それこそストーカーになってしまう。だれにも気づかれることなく、遠くから彼女を見守ることが私の生きがいであり、だれにも言えない秘密でもある。
とにかく彼女の身に危険がないようにつかず離れず見守るのだ。
ひとまず彼女の無事が確認できたから夕方まで仕事でもするか。本音としては彼女が仕事をする姿を見てみたいのだが。
私は踵を返し、会社へと向かう。退屈な仕事をするために。隣の駅まで戻る。
正直な話、日中はあまり仕事に集中できなかった。彼女のことが気になって仕方なかったからだ。
ようやく夕方を迎える。
彼女の仕事は残業が当たり前らしく定時に上がることはない。それでも万が一ということがある。私は定時に仕事を切り上げると彼女が働くビルに向かった。
するとどうだ。偶然にも彼女がビルから出てくるではないか。今日は定時に帰れたのだ。
「あれ、どうしたの? お父さん」
彼女が私に気がついた。
しまった。油断していた。まさか定時に終わると思っていなかったので堂々とビルの前まで来ていた。
どうしたの? と聞かれ、どう答えるか迷う。この春入社したばかりの娘のことが心配なあまり、その様子を行き帰りとバレないように見守っていた。とても言えるわけがない。
彼女は一人暮らしがしたいと言って実家から通わず、近くにワンルームマンションを借り、そこから通っているのだ。
どうしよう。やっぱり正直に「おまえが就職した会社を調べると、少しブラックなところもある会社のようだから、心が折れて電車に飛び込まれでもしたらお父さん悲しくて生きていけないから、それを未然に防ぐためにこうして行きと帰りにこっそりあとをつけていたんだよ」と言うべきだろうか。
所かまわず爪を切ったり、鼻をかんだりするような娘だけど、私に似てメンタルが弱いところがある。だから心配で仕方がなかった。
「うーん。じつはたまたま得意先がこのあたりにあってね。直帰するところだったんだよ」
けっきょく誤魔化した。おまえのことが心配なんだ、なんてやっぱり言えない。娘はもう立派な社会人。幼い子どもじゃない。
「ふぅん。そうなんだ」
よかった。娘は気がついていないみたいだ。
「少し飲んで帰るか?」
駅前に並ぶ赤ちょうちんに目をやり、娘を誘う。
「お父さんのおごりよね」
「もちろん」
話も聞いておいたほうがいい。やっぱり娘のことが心配だから。
今日のところはバレずに済んだ。いつまで隠し通せるか、それはわからないけど。
夕暮れの駅前は食欲をそそる匂いが漂う。私は娘と並んで歩く幸せを噛みしめている。
(了)