第11回「小説でもどうぞ」選外佳作 素晴らしき恵み/獏太郎
第11回結果発表
課 題
別れ
※応募数260編
選外佳作
「素晴らしき恵み」
獏太郎
「素晴らしき恵み」
獏太郎
エミコはどうしたらいいのか、わからない。
――気持ち悪いわ……どうしよう。
エミコは下着の中に手を入れた。あった。排泄物を素手で掴んで取り出した。すると近くにいるふたりの女性は、大騒ぎになった。
「だから早く施設に入れようって言うたやろ」
「週末から行くやろ、あと三日の我慢や」
「認知症やねんから、さっさと入れたらよかったのに」
「お父さんの財産分与のんが振り込まれへんかったら、行かれへんかってんやんか」
エミコの目の前で、ふたりの女性は激しく口論している。
――誰やろ、なんかあったんかな?
三日後、エミコは車に乗せられた。どこへ行くのか、わからない。しばらく走って、車は止まった。大きな建物がある。後ろ側が傾いた。そのままゆっくり外へと出た。座っている車が滑らかに動いた。透明のドアが左右に開いた。どんどん進んでゆく。見知らぬ人が沢山いる場所に来た。
――どこやろ、ここ。
しばらくすると、なにやら匂いがしてきた。なんとなく、うれしい気持ちになった。エミコの座るテーブルの前に、お皿に乗ったものが運ばれてきた。手でつかんでみる。すると誰かが近づいて来た。
「エミコさん、箸かスプーン使って食べてや。これ昼ごはんやからな」
そう言って、男性がなにかを渡して来た。
――なんやろ、これ。
エミコは、今度は違う皿にあるものをさわろうとした。すると男性が手を掴んだ。
「だーかーらー。あかんわ」
気になるからさわるのが、あかんの……。エミコはそっと手を引いた。結局、訳がわからないので、なにもしないことにした。先程手を掴んだ男性が、横に座った。
「はい、口開けてみて。手伝うから」
怖いので、口をつぐんだままにした。また、怒られた。わからないまま、怒られた。目の前のお皿は下げられてしまった。今度は女の人が来た。横に座って、目を合わせて来た。
「はじめまして〈安倍マリア〉です」
マリアはしばらく、エミコの横にいた。
翌日から、いろんな人が近づいて来た。どこかへ連れて行かれたりもした。エミコは矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、困惑した。
――わからへん、わかれへんねん、どうしたらええの!
そんな時、よくやって来る女性がいた。
「安倍さん、エミコさんちっとも指示が入れへんねん」
「ウチが代わってみるわ」
マリアはしゃがみ、エミコと視線を合わせた。そしてゆっくり、やさしく話しかけて来た。彼女の話し方は、なぜかエミコを落ち着かせた。
高齢者施設での生活が始まって二か月が過ぎた。エミコはいつの間にか、マリアを追っていた。
――あのひと、ええひとや。
マリアは、よくエミコに話しかけてくる。他の人は、よく怒って来る。なぜ怒るのか、わからない。エミコの認知症が進むにつれ、おかしな行動が多くなっていた。それでもマリアだけは、怒ることはなかった。
施設での生活が始まって二年が過ぎた。
このところ、エミコは一日の大半を寝て過ごすようになっていた。家族は施設に入ってから、一度も面会にも来なかった。唯一の差し入れは、CDプレイヤーだった。若い時によく音楽を聞いていたので、退屈しないように聞かせてほしい、ということだった。
エミコはゆっくりと目を覚ました。誰か、いてる。それは偶然、様子を見に来たマリアだった。マリアはCDを入れて、スイッチを押した。小さな音量で音楽が流れた。エミコが好きな〈アメイジング・グレイス〉だ。
――キレイな声やな。
毎日枕元で、心地よい音量で音楽が流れる日々が続いた。もう、エミコは怒られることはない。ベッドの上で、静かに寝ている時間が長いからだ。そんな中でも、エミコはうれしそうに、ほほ笑む時がある。マリアの姿を見つけた時だ。マリアにだけは、笑顔を見せる。
エミコが何もしなくなったのでよかった、というスタッフもいる。マリアは、そうは思わない。エミコが浮かべる笑顔を見て、うれしく思う。
今日も〈アメイジング・グレイス〉が流れると、エミコは穏やかな表情を浮かべた。 家族とは、あっけなく別れた。しかし、人生の最終章で、出会いもあった。エミコにとってマリアとの出会いは、〈素晴らしき恵み〉なのかもしれない。
(了)
――気持ち悪いわ……どうしよう。
エミコは下着の中に手を入れた。あった。排泄物を素手で掴んで取り出した。すると近くにいるふたりの女性は、大騒ぎになった。
「だから早く施設に入れようって言うたやろ」
「週末から行くやろ、あと三日の我慢や」
「認知症やねんから、さっさと入れたらよかったのに」
「お父さんの財産分与のんが振り込まれへんかったら、行かれへんかってんやんか」
エミコの目の前で、ふたりの女性は激しく口論している。
――誰やろ、なんかあったんかな?
三日後、エミコは車に乗せられた。どこへ行くのか、わからない。しばらく走って、車は止まった。大きな建物がある。後ろ側が傾いた。そのままゆっくり外へと出た。座っている車が滑らかに動いた。透明のドアが左右に開いた。どんどん進んでゆく。見知らぬ人が沢山いる場所に来た。
――どこやろ、ここ。
しばらくすると、なにやら匂いがしてきた。なんとなく、うれしい気持ちになった。エミコの座るテーブルの前に、お皿に乗ったものが運ばれてきた。手でつかんでみる。すると誰かが近づいて来た。
「エミコさん、箸かスプーン使って食べてや。これ昼ごはんやからな」
そう言って、男性がなにかを渡して来た。
――なんやろ、これ。
エミコは、今度は違う皿にあるものをさわろうとした。すると男性が手を掴んだ。
「だーかーらー。あかんわ」
気になるからさわるのが、あかんの……。エミコはそっと手を引いた。結局、訳がわからないので、なにもしないことにした。先程手を掴んだ男性が、横に座った。
「はい、口開けてみて。手伝うから」
怖いので、口をつぐんだままにした。また、怒られた。わからないまま、怒られた。目の前のお皿は下げられてしまった。今度は女の人が来た。横に座って、目を合わせて来た。
「はじめまして〈安倍マリア〉です」
マリアはしばらく、エミコの横にいた。
翌日から、いろんな人が近づいて来た。どこかへ連れて行かれたりもした。エミコは矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、困惑した。
――わからへん、わかれへんねん、どうしたらええの!
そんな時、よくやって来る女性がいた。
「安倍さん、エミコさんちっとも指示が入れへんねん」
「ウチが代わってみるわ」
マリアはしゃがみ、エミコと視線を合わせた。そしてゆっくり、やさしく話しかけて来た。彼女の話し方は、なぜかエミコを落ち着かせた。
高齢者施設での生活が始まって二か月が過ぎた。エミコはいつの間にか、マリアを追っていた。
――あのひと、ええひとや。
マリアは、よくエミコに話しかけてくる。他の人は、よく怒って来る。なぜ怒るのか、わからない。エミコの認知症が進むにつれ、おかしな行動が多くなっていた。それでもマリアだけは、怒ることはなかった。
施設での生活が始まって二年が過ぎた。
このところ、エミコは一日の大半を寝て過ごすようになっていた。家族は施設に入ってから、一度も面会にも来なかった。唯一の差し入れは、CDプレイヤーだった。若い時によく音楽を聞いていたので、退屈しないように聞かせてほしい、ということだった。
エミコはゆっくりと目を覚ました。誰か、いてる。それは偶然、様子を見に来たマリアだった。マリアはCDを入れて、スイッチを押した。小さな音量で音楽が流れた。エミコが好きな〈アメイジング・グレイス〉だ。
――キレイな声やな。
毎日枕元で、心地よい音量で音楽が流れる日々が続いた。もう、エミコは怒られることはない。ベッドの上で、静かに寝ている時間が長いからだ。そんな中でも、エミコはうれしそうに、ほほ笑む時がある。マリアの姿を見つけた時だ。マリアにだけは、笑顔を見せる。
エミコが何もしなくなったのでよかった、というスタッフもいる。マリアは、そうは思わない。エミコが浮かべる笑顔を見て、うれしく思う。
今日も〈アメイジング・グレイス〉が流れると、エミコは穏やかな表情を浮かべた。 家族とは、あっけなく別れた。しかし、人生の最終章で、出会いもあった。エミコにとってマリアとの出会いは、〈素晴らしき恵み〉なのかもしれない。
(了)