第10回「小説でもどうぞ」選外佳作 心を奪われる/田村恵美子
第10回結果発表
課 題
夢
※応募数291編
選外佳作
「心を奪われる」
田村恵美子
「心を奪われる」
田村恵美子
「世界一美味しいケーキを作ることが、私の夢なの」
彼女が言った。隣の席に座る僕は、彼女の横顔を見つめる。特急列車が通り過ぎた後のホームには、僕らしかいない。蒸し暑い風を受けて、肩まで伸ばした彼女の髪が揺れる。
「私が小学二年生の時にお父さんが突然亡くなったの。交通事故だった」
そう言うと彼女は、蜘蛛の巣でもがく蛾を凝視した。僕は静かに彼女の言葉を待った。
「お母さんは働き始めたの。正社員だよ。だから、帰るのも遅くなってね。夕ご飯はほとんどスーパーのお惣菜」
彼女の横顔が寂しそうに見えた。憐憫の眼差しに気づき、彼女はあわてて僕の方を向いた。大きく強い光をたたえる彼女の瞳に、僕は胸がキュッと締め付けられた。
「でもね、お休みの日は手の込んだ料理を作ってくれたの。それもね、私と一緒にだよ」
彼女の目がさらに煌めいた。
「餃子なんか、ちゃんと皮から作ったんだ。お母さんと二人で小麦粉をこねて、麺棒で丸く伸ばしてね。だから、どこかに出かけなくても、とっても楽しかったんだ」
彼女は心から嬉しそうに笑った。つられて僕も笑った。
「おかげで、私、料理することが楽しくなってね。小学三年生の時、お母さんの誕生日にケーキを作って驚かせようと思ったの。うちにはオーブンなんてなかったから、ホットケーキを何枚も重ねてケーキを作ろうとしたの」
そこまで言うと彼女の顔が曇った。とたんに僕の心がどんよりとざわめく。
「だけど、ホットケーキはフライパンにくっついて剥がれなくてぐちゃぐちゃ。生クリームは泡立たなくてべちゃべちゃ」
彼女はその時のケーキを見ているかのように、渋い顔をした。僕は慰めの言葉を探した。
「ボロボロのケーキの前で泣いていたら、お母さんが帰ってきてね。ものすごく喜んでくれたの。『遙が初めて作ったケーキが食べられるなんて、幸せ者ね』って言って、酷いケーキを、おいしいって全部食べてくれたの」
再び彼女の顔がぱっと輝いた。僕は胸の奥が甘く痛んだ。
「その時、私、世界一美味しいケーキを作って、お母さんに食べてもらおうと決めたの」
彼女はそこまで言うと再び、僕から視線を外して前方に顔を向けた。彼女の横顔を見つめていたら、僕はなぜか泣きそうになった。
話を聞きながら、僕はずっと、彼女が誰なのか思い出そうとしていた。どこかで会ったことがあるはずなのに、思い出せない。
「バイトしてお金をためて、今年の四月から一人暮らしをして、製菓の専門学校に通っているの。毎日遅くまでケーキ屋さんでバイトもしている。絶対に夢をかなえたくてね」
夢を熱く語る彼女を見ていて、自分が恥ずかしくなってきた。僕には両親もいる。努力もせずに、三流の大学に何となく通っている。そのくせ、勉強も友人関係も異性のことも、何一つ思い通りにならず、すべてが不満だった。女性とこんな風に話したことがなかった。
彼女の話を聞いているうちに僕は、熱い思いが湧き上がってきた。彼女の笑顔をずっと見ていたい。彼女の力になりたい。すべての不幸から彼女を守りたい。
この気持ちを彼女に伝えたい。そう思った時、彼女の目から涙が溢れた。
とめどなく流れる涙。僕は狼狽えた。
「もう、私の夢は叶わない……」
そう彼女が言ったとき、ホームに最終列車が到着した。僕の視線が列車から降りてくる乗客へ移った。降りる乗客の中に隣に座っているはずの彼女がいる。僕が隣を見るとそこにはもう、彼女の姿はなかった。
電車から降り階段を上る彼女を見て、全てを思い出した。ここで僕は彼女を待っていた。
あの日、僕はホームのベンチに座って彼女を待っていた。何一つ思い通りならない人生、欲望のままに行動してみたかったのだ。
僕は彼女を襲う目的で後を追った。名前も素性も知らない。ただ僕の部屋の隣に住む若い女性、それだけの理由で……。
今、僕は夢の中だ。裁判で彼女の生い立ちを聞いてから始まった夢。もう何万回も見ている夢。僕が殺した山本遥さんの夢。
僕は彼女の夢も、彼女そのものも壊してしまう。ああ、やめてくれ。僕の意を反して、夢の中の僕は彼女を追っていく。彼女が部屋に入る瞬間、僕は彼女押し倒して部屋に侵入する。そして……。
「もう嫌だ! 彼女が壊れるのを見たくない! だれか僕を殺してくれー」
目を覚ました僕は叫び続けた。僕が死ねばいいんだ。だけど、安らかに眠ることも死ぬことも許されない。僕は今、精神病院のベッドの上で、手足を拘束されている。
(了)
彼女が言った。隣の席に座る僕は、彼女の横顔を見つめる。特急列車が通り過ぎた後のホームには、僕らしかいない。蒸し暑い風を受けて、肩まで伸ばした彼女の髪が揺れる。
「私が小学二年生の時にお父さんが突然亡くなったの。交通事故だった」
そう言うと彼女は、蜘蛛の巣でもがく蛾を凝視した。僕は静かに彼女の言葉を待った。
「お母さんは働き始めたの。正社員だよ。だから、帰るのも遅くなってね。夕ご飯はほとんどスーパーのお惣菜」
彼女の横顔が寂しそうに見えた。憐憫の眼差しに気づき、彼女はあわてて僕の方を向いた。大きく強い光をたたえる彼女の瞳に、僕は胸がキュッと締め付けられた。
「でもね、お休みの日は手の込んだ料理を作ってくれたの。それもね、私と一緒にだよ」
彼女の目がさらに煌めいた。
「餃子なんか、ちゃんと皮から作ったんだ。お母さんと二人で小麦粉をこねて、麺棒で丸く伸ばしてね。だから、どこかに出かけなくても、とっても楽しかったんだ」
彼女は心から嬉しそうに笑った。つられて僕も笑った。
「おかげで、私、料理することが楽しくなってね。小学三年生の時、お母さんの誕生日にケーキを作って驚かせようと思ったの。うちにはオーブンなんてなかったから、ホットケーキを何枚も重ねてケーキを作ろうとしたの」
そこまで言うと彼女の顔が曇った。とたんに僕の心がどんよりとざわめく。
「だけど、ホットケーキはフライパンにくっついて剥がれなくてぐちゃぐちゃ。生クリームは泡立たなくてべちゃべちゃ」
彼女はその時のケーキを見ているかのように、渋い顔をした。僕は慰めの言葉を探した。
「ボロボロのケーキの前で泣いていたら、お母さんが帰ってきてね。ものすごく喜んでくれたの。『遙が初めて作ったケーキが食べられるなんて、幸せ者ね』って言って、酷いケーキを、おいしいって全部食べてくれたの」
再び彼女の顔がぱっと輝いた。僕は胸の奥が甘く痛んだ。
「その時、私、世界一美味しいケーキを作って、お母さんに食べてもらおうと決めたの」
彼女はそこまで言うと再び、僕から視線を外して前方に顔を向けた。彼女の横顔を見つめていたら、僕はなぜか泣きそうになった。
話を聞きながら、僕はずっと、彼女が誰なのか思い出そうとしていた。どこかで会ったことがあるはずなのに、思い出せない。
「バイトしてお金をためて、今年の四月から一人暮らしをして、製菓の専門学校に通っているの。毎日遅くまでケーキ屋さんでバイトもしている。絶対に夢をかなえたくてね」
夢を熱く語る彼女を見ていて、自分が恥ずかしくなってきた。僕には両親もいる。努力もせずに、三流の大学に何となく通っている。そのくせ、勉強も友人関係も異性のことも、何一つ思い通りにならず、すべてが不満だった。女性とこんな風に話したことがなかった。
彼女の話を聞いているうちに僕は、熱い思いが湧き上がってきた。彼女の笑顔をずっと見ていたい。彼女の力になりたい。すべての不幸から彼女を守りたい。
この気持ちを彼女に伝えたい。そう思った時、彼女の目から涙が溢れた。
とめどなく流れる涙。僕は狼狽えた。
「もう、私の夢は叶わない……」
そう彼女が言ったとき、ホームに最終列車が到着した。僕の視線が列車から降りてくる乗客へ移った。降りる乗客の中に隣に座っているはずの彼女がいる。僕が隣を見るとそこにはもう、彼女の姿はなかった。
電車から降り階段を上る彼女を見て、全てを思い出した。ここで僕は彼女を待っていた。
あの日、僕はホームのベンチに座って彼女を待っていた。何一つ思い通りならない人生、欲望のままに行動してみたかったのだ。
僕は彼女を襲う目的で後を追った。名前も素性も知らない。ただ僕の部屋の隣に住む若い女性、それだけの理由で……。
今、僕は夢の中だ。裁判で彼女の生い立ちを聞いてから始まった夢。もう何万回も見ている夢。僕が殺した山本遥さんの夢。
僕は彼女の夢も、彼女そのものも壊してしまう。ああ、やめてくれ。僕の意を反して、夢の中の僕は彼女を追っていく。彼女が部屋に入る瞬間、僕は彼女押し倒して部屋に侵入する。そして……。
「もう嫌だ! 彼女が壊れるのを見たくない! だれか僕を殺してくれー」
目を覚ました僕は叫び続けた。僕が死ねばいいんだ。だけど、安らかに眠ることも死ぬことも許されない。僕は今、精神病院のベッドの上で、手足を拘束されている。
(了)