第9回「小説でもどうぞ」佳作 車中にて/藤野はるい
第9回結果発表
課 題
冒険
※応募数260編
「車中にて」藤野はるい
急に東京に住む孫に会いたくなった。
毎日畑仕事をしているせいか、足腰はじょうぶなほうだ。耳だって遠くない。
思い立ったら吉日というではないか。房枝は小さなボストンバッグ一つ持って車中の人となった。
毎日畑仕事をしているせいか、足腰はじょうぶなほうだ。耳だって遠くない。
思い立ったら吉日というではないか。房枝は小さなボストンバッグ一つ持って車中の人となった。
早朝の列車はすいていた。房枝は、通路側の席にどっこいしょと腰を下ろすとボストンバッグを脇に置いた。
これから何時間も列車に揺られなければならない。でも、孫に会いたいから。
房枝は、首をぐるりと回して周りを見渡した。
これから何時間も列車に揺られなければならない。でも、孫に会いたいから。
房枝は、首をぐるりと回して周りを見渡した。
発車間際に、男が列車の前のドアから入って来た。つかつかとこちらに進んでくる。男は、通路を隔てた房枝の隣の席にどっかと腰を下ろした。
あら、男前だこと。
仕立てのいいスーツを着ている。年の頃は三十代後半ぐらい。勤め人だろうか。
「おはようさん」
房枝の視線を感じたのかどうか。男がこっちを向いてニッと笑った。
男は所用があって北海道に来ていたのだが、これから帰るのだと言った。笑顔が人懐っこい。問われるまま房枝も、これから東京の大学に通う孫に会いに行くのだと答えた。
男は、快活によく喋った。長い道中いい話相手ができたと思った。退屈しないですみそうだ。
人たらし……ふとそんな言葉が頭に浮かんだ。知らず知らずに相手の懐に入ってくる。そういう人間がいるのだ。
列車が動き出した。ふとお腹がすいていることに気がついた。急いで家を出てきて、今朝は何も食べていないのだ。
ボストンバッグから紙包みを取り出す。中には列車の中で食べようと握ってきたおにぎりが二つある。男がそれを見ていた。
「お兄さん、朝ご飯は?」
男は、寝坊して急いで宿を出てきたので何も食べていないのだと首をすくめた。
「それなら、これ食べてください」
どうせ二つは食べられないのだ。男は手を伸ばして「おおきに」とそれを受け取った。
「美味しいなあ」
お茶が飲みたかったが、駅の売店で買ってくるのを忘れた。ふいに男が立ち上がると、前の車両に消えていった。戻った男の手には緑茶の缶が握られていた。
「はい、お握りのお礼や」
「あらまあ」
前の車両に車内販売の女の子がいたので買ってきたのだという。男の親切が嬉しかった。
お腹が満たされて列車に揺られていると、眠気が襲ってくる。久しぶりに亡くなった夫の夢を見た。知り合いの紹介だったけれど、優しい人だった。穏やかな暮らしだった、と思う。遠くから私を呼んでいる……。
「おばあちゃん、おばあちゃん……」
肩を揺すられて房枝はゆっくり目を開けた。呼んでいたのは夫ではなく車掌だった。
「危なかったね。もう少しですりに遭うところだった」
房枝は、車掌が示す方に寝ぼけた目を向けた。悪態つきながら黒ずくめの男が職員に連れていかれるのが見えた。
「この人が気がついてすぐに知らせてくれたんだわ」
「あの男、キョロキョロして落ちつきないし、気になって注意して見とったんや。そしたら、俺がトイレから帰ったら、おばちゃんの鞄に手を伸ばしとった」
房枝はしゅんとなった。ちっとも気づかなかった。まだまだ元気なつもりでいたのに、やはり自分は九十歳の年寄りなのだ。房枝は、何度も何度も男に礼を言った。
「美味しいお握りのお礼や」
男がニッと笑った。
仕立てのいいスーツを着ている。年の頃は三十代後半ぐらい。勤め人だろうか。
「おはようさん」
房枝の視線を感じたのかどうか。男がこっちを向いてニッと笑った。
男は所用があって北海道に来ていたのだが、これから帰るのだと言った。笑顔が人懐っこい。問われるまま房枝も、これから東京の大学に通う孫に会いに行くのだと答えた。
男は、快活によく喋った。長い道中いい話相手ができたと思った。退屈しないですみそうだ。
人たらし……ふとそんな言葉が頭に浮かんだ。知らず知らずに相手の懐に入ってくる。そういう人間がいるのだ。
列車が動き出した。ふとお腹がすいていることに気がついた。急いで家を出てきて、今朝は何も食べていないのだ。
ボストンバッグから紙包みを取り出す。中には列車の中で食べようと握ってきたおにぎりが二つある。男がそれを見ていた。
「お兄さん、朝ご飯は?」
男は、寝坊して急いで宿を出てきたので何も食べていないのだと首をすくめた。
「それなら、これ食べてください」
どうせ二つは食べられないのだ。男は手を伸ばして「おおきに」とそれを受け取った。
「美味しいなあ」
お茶が飲みたかったが、駅の売店で買ってくるのを忘れた。ふいに男が立ち上がると、前の車両に消えていった。戻った男の手には緑茶の缶が握られていた。
「はい、お握りのお礼や」
「あらまあ」
前の車両に車内販売の女の子がいたので買ってきたのだという。男の親切が嬉しかった。
お腹が満たされて列車に揺られていると、眠気が襲ってくる。久しぶりに亡くなった夫の夢を見た。知り合いの紹介だったけれど、優しい人だった。穏やかな暮らしだった、と思う。遠くから私を呼んでいる……。
「おばあちゃん、おばあちゃん……」
肩を揺すられて房枝はゆっくり目を開けた。呼んでいたのは夫ではなく車掌だった。
「危なかったね。もう少しですりに遭うところだった」
房枝は、車掌が示す方に寝ぼけた目を向けた。悪態つきながら黒ずくめの男が職員に連れていかれるのが見えた。
「この人が気がついてすぐに知らせてくれたんだわ」
「あの男、キョロキョロして落ちつきないし、気になって注意して見とったんや。そしたら、俺がトイレから帰ったら、おばちゃんの鞄に手を伸ばしとった」
房枝はしゅんとなった。ちっとも気づかなかった。まだまだ元気なつもりでいたのに、やはり自分は九十歳の年寄りなのだ。房枝は、何度も何度も男に礼を言った。
「美味しいお握りのお礼や」
男がニッと笑った。
「ばあちゃん、よく来たなあ」
東京駅では、孫の智宏が待っていた。
房枝の話を聞くとびっくりして
「いい人が横にいて良かったね。名前とか聞いたの?」
「これをくれたんだけどね」
「ばあちゃん、この名刺……」
智宏がげらげら笑い出した。
「俺、代紋が入った名刺初めて見たよ。そんな人とずっとお喋りしてきたの?」
「なんも、普通の人だったよ。ブラック企業で働いてる、って言ってたけどな」
「ブラック企業って言うな」
と孫がまた笑う。
「ばあちゃん、すごい冒険してきたな」
「長生きしてるとね、冒険でもなんでもないさ」
房枝は、あの男の真似をしてニッと笑った。
(了)
東京駅では、孫の智宏が待っていた。
房枝の話を聞くとびっくりして
「いい人が横にいて良かったね。名前とか聞いたの?」
「これをくれたんだけどね」
「ばあちゃん、この名刺……」
智宏がげらげら笑い出した。
「俺、代紋が入った名刺初めて見たよ。そんな人とずっとお喋りしてきたの?」
「なんも、普通の人だったよ。ブラック企業で働いてる、って言ってたけどな」
「ブラック企業って言うな」
と孫がまた笑う。
「ばあちゃん、すごい冒険してきたな」
「長生きしてるとね、冒険でもなんでもないさ」
房枝は、あの男の真似をしてニッと笑った。
(了)