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第9回「小説でもどうぞ」佳作 オジャマムシ/稲尾れい

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第9回結果発表
課 題

冒険

※応募数260編
「オジャマムシ」稲尾れい
 民宿の部屋の窓から見える裏庭には池があって、その周りを白や茶色のアヒル達が闊歩していた。部屋まで案内してくれたおばさんが言っていた通りだ。「うわあ」ルリは窓を開け、小さなバルコニーに飛び出した。柵から身を乗り出して手を伸ばせば、アヒル達がよちよちと寄ってくる。
「なにかあげたい。お母さん、なにかない?」
「この民宿で飼ってるアヒルさんだから、勝手にご飯あげたら駄目なんだよ。ルリの小学校のウサギさんだってそうでしょ」
「二人とも、お茶でも淹れてゆっくりしようよ。お父さんもう、運転し過ぎでクタクタだ」
 旅行カバンを開けて荷物の整理を始めたお母さんも、お茶葉の缶を覗いているお父さんも、アヒルどころではない様子だ。アヒル達がまた向こうへ行ってしまうのを見て、ルリはバルコニーの柵に足を掛けた。あっという間によじ登り、バルコニーの外側に張りつく。ここは一階なので、下に飛び降りても大丈夫そうだったけれど、後で登れなくなると困るのでそれはやめておく。アヒルを追って柵を横へ横へとつたっている内に、その動きが楽しくなってきた。アスレチックみたいだし、子供会で高鬼をして遊ぶ時みたいでもある。
 ルリは子供会に入っていて、近くの大学に通う指導員のお兄さんやお姉さんと毎週土曜日に公園で遊んでいる。高鬼の時、「高ければいいんだよね」とルリが木の股や塀の上やグローブジャングルのてっぺんに登る度にお兄さんやお姉さんはおろおろした様子で言う。
「ルリちゃん、手を離しても安全に立っていられるところに登らなきゃ、駄目だよ!」
 けれどルリは、簡単に登れてしまうその辺の段差より登りがいのある場所が好きなのだ。
 いつの間にか別の部屋のベランダまで来ていた。アヒルはとっくにいない。窓にはレースのカーテンだけが引かれ、その向こうでジーンズをはいた脚が四本、裸足の足指でつつき合ってじゃれているのがぼんやりと見えた。ルリが目をこらすと、脚と脚はパッと離れた。片方の脚がのろのろと膝立ちになり、こちらににじり寄ってくる。
 レースのカーテンを開いたのは、子供会のお兄さんと同じような歳の男の人だった。その後ろで、やはり同じくらいの女の人が目を見開いてこちらを見ている。両手で柵をぎゅっと握りしめるルリに向かい、男の人は窓越しにニヤリと笑い掛けているような、怒っているような顔をしてみせた。その口が開いた。
『オ・ジャ・マ・ム・シ!』
 無我夢中で柵をつたって引き返し、気付けばルリはまた元のベランダに戻っていた。
「もうやだ、どこまで行ってたのよルリ!」
 悲鳴のようにお母さんが言ったけれど、のどの辺りでどくどく心臓が脈打って何も答えられない。お母さんだけでなく、周りの大人達には何かと叱られがちなルリだったけれど、それでも今まで邪魔にされたことなどなかった。特にお兄さんやお姉さんは無条件に優しく構ってくれるものと疑いもしなかったのだ。
 食堂で夕ご飯を食べている時も、浴場でお母さんに髪を洗ってもらっている時も、ルリはソワソワと悔しいような淋しいような気持ちでいた。けれどあの二人と会うことはなく、眠る頃にはもうほとんど忘れ掛けていた。
 翌朝、早起きしたルリは一人で裏庭のアヒルに会いに向かった。お父さんは「朝食の時間になったら起きるから」と言ってまた眠ってしまったし、お母さんは「まだお化粧してないし、そこから見てるよ。寄り道しないでね」とあくび交じりにバルコニーを指差した。
 民宿の玄関を出た時、玄関脇に停まっていた水色の小さな自動車がちょうどゆっくりと発進するところだった。ルリが少し後ずさると、運転席の窓がスルスルと下がった。
「おはようさん、お邪魔虫ちゃん」
 窓越しではない男の人の声は、昨日よりも優しく聞こえた。耳にじんと沁みて、ルリは何か言おうと開いた口を歪めた。助手席の女の人が男の人の腕をぱしんと叩き、それからルリに笑い掛けた。「ごめんね。バイバイね」
 今まで聞いたことのないほど甘い声だった。
 水色の自動車が走り去ってゆくのを見送りもせず、ルリは全速力で裏庭まで走った。アヒル達は池の周りで身体を丸く膨らませて眠そうに並んでいた。駆け込んできたルリに驚いたのか、その内の一羽が、があ、と鳴いた。
「あっ、やっと来た」
 ベランダに立つお母さんがちらりと目に入ったけれど、立ち止まらない。カーテンがぴっちり閉まっている窓が並ぶ中に一つ、レースのカーテンだけが引かれた窓。向こうにはもう誰もいないのだろう。ルリは深呼吸すると、その窓に向かって叫んだ。
「ジャマっていうな、バーカッ!!」
 があがあと呼応するようにアヒル達が鳴いている。「どうしたの、ルリ」とお母さんが向こうで呼んでいる。首を振ってその全部を振り払い、地団太を踏んでルリは涙ぐんだ。
(了)