W選考委員版「小説でもどうぞ」第1回 佳作 つれない妻と忠義のラクダ/有薗花芽
「つれない妻と忠義のラクダ」有薗花芽
「白石さん、新規先に遅刻は厳禁ですよ!」
焦ってせかしてくる黒田君の顔を私はちらりと見やった。黒々とうねる堅そうな髪はやぼったく、平べったい鼻やヘの字に結ばれた口と相まって、唯一の優良パーツである長いまつげに縁取られた二重の大きな目を台無しにしている。おまけに舌が長すぎるのか、黒田君のしゃべる言葉は不明瞭でどんくさい。
もっとも、彼が口下手なのには理由がある。
黒田君は前世までずっと、黒いひとこぶラクダだったのだ。ついこの間までは「グアーン」としか鳴いてこなかったのだから、人間の複雑な言語に手こずっているのも仕方ない。
私はスカートの皺を伸ばしながら立ち上がると、ドアを開けて待っていてくれた黒田君には目もくれずに外に出た。目には見えない手綱をグイと引っ張ると、うしろで黒田君がヨタヨタと小走りになる気配が伝わってきた。
黒田君は一年前、私が働くノンバンクの法人融資部に中途採用で入社してきた。
朝礼で初めて黒田君が紹介された時のことは忘れられない。営業向きとは思えないその風体に軽いざわめきが広がり、女子社員たちはあからさまにがっくりと肩を落とした。
そんな中、私は黒田君に釘づけだった。
彼を一目見た瞬間、私が前世で飼っていたラクダだとすぐに気づいたからだ。
堅苦しすぎる上に滑舌の悪い挨拶をし、深々と頭を下げている黒田君の姿を見つめながら、私は懐かしさで胸がいっぱいになった。
アラブの商人だった私は、彼の盛り上がった背中の上で、スキップのようなリズムに揺られながら、幾日も砂漠を旅していたのだ。
黒田君が挨拶の途中で言葉に詰まり、ラクダの面影が残る黒々と濡れた目を困ったようにしばたたかせた時には、私は思わずそばに駆け寄って、彼の剛毛が渦まく首すじを優しくなでてやりたい衝動にかられた。
今やすっかり私のアシスタント然としている黒田君を従えて、私が新規の営業先である会社に到着すると、担当者だという物腰の柔らかい若い男性が出迎えてくれた。
「工場のラインを入れ替えるための融資を、ぜひお願いしたいと思っているのです……」
担当の男性は単刀直入に、要領よくよどみのない説明を始める。神妙にうなずきながら聞いている黒田君の隣で、私はただただ食い入るように担当の男性の顔を見つめていた。
私は彼をよく知っていたのだ。
彼は、前世で私の妻だった。
私の脳裏には、ほっそりと美しく宝石で着飾った前世の妻の姿が浮かんでいた。私は彼女を愛していたが、彼女はそれを信じようとしなかった。なぜなら裕福なアラブの商人だった私には八人もの妻がいたからだ。彼女は私の愛に従順さで応えてはくれたものの、私が彼女の心を得られることはついぞなかった。
ハッと我に返ると、いつの間にか商談は終わっていた。明らかに様子がおかしくなった私に代わって、黒田君が何とか体裁をつくろってくれたらしい。
「白石さん、大丈夫ですか?」
行きとは打って変わって、帰り道をトボトボと歩く私を心配そうに黒田君は振り返った。
「うん……」
黒田君は少し首をかしげながら言った。
「白石さん、さっきの会社への融資はやめておきましょう。回収不能な匂いがします」
「え、それってまた例の黒田君の動物的勘?」
「ええ、そうですよ。でもその勘のおかげで白石さんの貸し倒れはゼロでしょう?」
黒田君の言う通りだ。
私の高い交渉力で取ってきた融資案件の中から、黒田君は不良案件を正確にかぎ分けて全部はじいてくれているのだ。今や私たちは、奇跡の社内最強コンビと呼ばれている。
「それと、さっきの担当者も、だめですよ」
黒田君はさらりと言った。
「え、どうして?」
「左薬指の指輪です。それに彼、ゲイですよ」
「そ、そうなの?」
「そうですよ」
私はがっくりと肩を落とした。満たされなかった想いは、今生もまた満たされないのだ。
黒田君は言った。
「元気を出してください。僕がついていますよ。それに、もし良かったら……」
少しためらってから、黒田君は言った。
「僕の首すじ、なでてくれてもいいんですよ。砂漠ではよく、そうしていたじゃないですか」
私はおどろいて黒田君を見つめた。
「え? ラクダだったことを覚えているの?」
黒田君は口をヘの字に曲げたまま言った。
「もちろんです。人間なんかに転生したのは、白石さんをそばで助けるためなんですから」
黒田君は鼻孔を大きく膨らませると、まるでラクダのようにブフッと鼻息を漏らした。
それで私は腕を伸ばして、黒々とした毛が渦巻く忠義者のラクダの首すじを、愛情を込めて軽くなでたのだ。
(了)
焦ってせかしてくる黒田君の顔を私はちらりと見やった。黒々とうねる堅そうな髪はやぼったく、平べったい鼻やヘの字に結ばれた口と相まって、唯一の優良パーツである長いまつげに縁取られた二重の大きな目を台無しにしている。おまけに舌が長すぎるのか、黒田君のしゃべる言葉は不明瞭でどんくさい。
もっとも、彼が口下手なのには理由がある。
黒田君は前世までずっと、黒いひとこぶラクダだったのだ。ついこの間までは「グアーン」としか鳴いてこなかったのだから、人間の複雑な言語に手こずっているのも仕方ない。
私はスカートの皺を伸ばしながら立ち上がると、ドアを開けて待っていてくれた黒田君には目もくれずに外に出た。目には見えない手綱をグイと引っ張ると、うしろで黒田君がヨタヨタと小走りになる気配が伝わってきた。
黒田君は一年前、私が働くノンバンクの法人融資部に中途採用で入社してきた。
朝礼で初めて黒田君が紹介された時のことは忘れられない。営業向きとは思えないその風体に軽いざわめきが広がり、女子社員たちはあからさまにがっくりと肩を落とした。
そんな中、私は黒田君に釘づけだった。
彼を一目見た瞬間、私が前世で飼っていたラクダだとすぐに気づいたからだ。
堅苦しすぎる上に滑舌の悪い挨拶をし、深々と頭を下げている黒田君の姿を見つめながら、私は懐かしさで胸がいっぱいになった。
アラブの商人だった私は、彼の盛り上がった背中の上で、スキップのようなリズムに揺られながら、幾日も砂漠を旅していたのだ。
黒田君が挨拶の途中で言葉に詰まり、ラクダの面影が残る黒々と濡れた目を困ったようにしばたたかせた時には、私は思わずそばに駆け寄って、彼の剛毛が渦まく首すじを優しくなでてやりたい衝動にかられた。
今やすっかり私のアシスタント然としている黒田君を従えて、私が新規の営業先である会社に到着すると、担当者だという物腰の柔らかい若い男性が出迎えてくれた。
「工場のラインを入れ替えるための融資を、ぜひお願いしたいと思っているのです……」
担当の男性は単刀直入に、要領よくよどみのない説明を始める。神妙にうなずきながら聞いている黒田君の隣で、私はただただ食い入るように担当の男性の顔を見つめていた。
私は彼をよく知っていたのだ。
彼は、前世で私の妻だった。
私の脳裏には、ほっそりと美しく宝石で着飾った前世の妻の姿が浮かんでいた。私は彼女を愛していたが、彼女はそれを信じようとしなかった。なぜなら裕福なアラブの商人だった私には八人もの妻がいたからだ。彼女は私の愛に従順さで応えてはくれたものの、私が彼女の心を得られることはついぞなかった。
ハッと我に返ると、いつの間にか商談は終わっていた。明らかに様子がおかしくなった私に代わって、黒田君が何とか体裁をつくろってくれたらしい。
「白石さん、大丈夫ですか?」
行きとは打って変わって、帰り道をトボトボと歩く私を心配そうに黒田君は振り返った。
「うん……」
黒田君は少し首をかしげながら言った。
「白石さん、さっきの会社への融資はやめておきましょう。回収不能な匂いがします」
「え、それってまた例の黒田君の動物的勘?」
「ええ、そうですよ。でもその勘のおかげで白石さんの貸し倒れはゼロでしょう?」
黒田君の言う通りだ。
私の高い交渉力で取ってきた融資案件の中から、黒田君は不良案件を正確にかぎ分けて全部はじいてくれているのだ。今や私たちは、奇跡の社内最強コンビと呼ばれている。
「それと、さっきの担当者も、だめですよ」
黒田君はさらりと言った。
「え、どうして?」
「左薬指の指輪です。それに彼、ゲイですよ」
「そ、そうなの?」
「そうですよ」
私はがっくりと肩を落とした。満たされなかった想いは、今生もまた満たされないのだ。
黒田君は言った。
「元気を出してください。僕がついていますよ。それに、もし良かったら……」
少しためらってから、黒田君は言った。
「僕の首すじ、なでてくれてもいいんですよ。砂漠ではよく、そうしていたじゃないですか」
私はおどろいて黒田君を見つめた。
「え? ラクダだったことを覚えているの?」
黒田君は口をヘの字に曲げたまま言った。
「もちろんです。人間なんかに転生したのは、白石さんをそばで助けるためなんですから」
黒田君は鼻孔を大きく膨らませると、まるでラクダのようにブフッと鼻息を漏らした。
それで私は腕を伸ばして、黒々とした毛が渦巻く忠義者のラクダの首すじを、愛情を込めて軽くなでたのだ。
(了)