高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 影/河音直歩
河音直歩
ベルを押すと、寝間着姿の父が出てきた。にこにこ笑っている。リビングに通されると、テレビはお笑い番組、食卓にはウイスキーの瓶、炭酸水のボトル、アルミのタンブラーがある。はにかんだ顔を隠すように下を向いて、父は酒を注いだ。
「まあ、よく来たね。なんか飲む?」
「少し寄ってみただけなの。どう? 最近」
「ああそう? うん。もう年だね、ほんと」
若いときみたいに二杯も三杯も食べられなくなってね、とつぶやいて、手の甲の血管を浮き上がらせながらペットボトルの蓋をひねる。美和がタンブラーを見ているのに気がつくと、「年寄りが飲むときはな、結局、割れないのが一番いいんだよな」
父は長らくバカラのグラスで酒を飲むのが日課だった。美和には電灯がぱっと消えたような寂しさがある。平凡な家庭でつま先立ちするような見栄を、一つでも若くあろうとする明るい意地を、父は手放していく。まだ近くに落ちているだろうか。美和は父の来た道を戻ってそれを拾い上げ、胸に押しつけたいくらいだった。美和は話を変えた。
「あの。おじさんって、どんな人だったの」 父はテレビを見たまま、目を見開いた。
「おじさん? あいつか。そうだな」
叔父は数十年前に急死したのだった。美和は名前を覚えていない。顏も知らない。
「やんちゃな人だったんでしょ」
「そうだな。あいつが十代のころはしょっちゅう警察から電話があって、誰かを殴ったとかそういうので、母親とよく迎えに行った」
父はぐいと酒に口をつけて、「結婚してからはギャンブルに入れ込んで、すったときはその足で金をせびりに来た。夜中、酔っ払ったまま、親父を叩き起こすんだ。着けているベルトを外してそれで殴る。それでも払わないと階段から突き落とす。親父の顔はいつも痣だらけだった。ひどいもんだ。でもあいつは芯から悪い人間じゃない」
亡くなった祖父母から一度も聞いたことのない話だった。小柄な祖父が体を丸め、階段を転げ落ちていく姿を想像すると、また、そんな凶暴な人と自分の血がつながっていることを思うと、美和の頭はにわかに熱くなった。
「どうしてそう思うの」
「年子で、ずっと仲が良かった。大人になってからは仕事を世話したりね。父さんも弟も同じ業界で仕事をしていたから、死ぬほど忙しいのだとか、意地汚い先輩への怒りだとか、互いに苦労がよくわかってね」
「それでも。おじいちゃんを殴るなんて」
父は眼を閉じ、首をゆっくりと振った。
「それはな、あの、あの女だよ。弟の嫁だ」 叔母は未亡人となり、行方が知れなかった。「あれのせいで弟はだめになった。結婚してからおかしくなった。弟たちの結婚は盛大に祝ってやったのに、あの女は父さんたちの結婚式に来なかった。金がないので、とさ。弟も来なかった。女はな、ずうっとうちの土地を狙ってたんだよ。弟はただの手段だった。だからあいつが死んだとき、火葬場で親父たちに『これはそちらでどうかしてください』と骨壺を押しつけた。とんでもない女だ。堪えきれずに親父の肩はぶるぶる震えて……」
父の瞼はぐりぐりとこすられ、赤くなった。
「亡くなったのはいつだったっけ」
「そうだな、お前の生まれるずいぶん前だから、もう三十年以上も前になるんだったか」
美和ははっとした。どうもおかしい。叔父が死んだのは自分が小学生の頃だったはずだ。
「あれ? 私、おじさんと電話で話したことあるよ」
父は一瞬眉をひそめると、遙か遠くを眺めるような顔になった。やがて、仕事のほうは最近どうだ、とぽつりと言った。それきり、叔父の話はおしまいになった。
ほつれた父の記憶ならば、どこまでが実際のことだろうか。おばに悪を押しつけているのだろうか。美和は夜の町を帰りながら、あれこれ考えを巡らせた。いやたとえ都合の良い過去の変形があるとしても、そうして父の痛みが弱まることが老いの一面だというのなら、その老いというのを父に許したって——そんなふうに初めて思えてくるのだった。
おじの名もおばの名も、ついに父は言わなかった。聞かずに済んでよかったのだろう。頭の隅には黒い影が二つ、じっとりとこちらを見つめている。美和にはそう感じる。あんたらに一生、名前も顔もくれてやるもんか。彼らにそう宣告しながら、青白い月の下で風を切って、美和はずんずん進んでいく。
(了)