小説新人賞受賞の条件③:小説になっているか


ルールはないようで、ある
ありありと感じがわかるのが描写文
小説になってるかどうかのひとつの判断基準は、描写で書かれているかどうか。
描写とは、様子がありありとわかるように書くこと。感じがわかるようにいきいきと書くこと。
たとえば、「あなたの手」について書くとしよう。〈指と手のひらからなる部分。〉これは観念的な「手」の説明に過ぎず、この文からは「あなたの手」は浮かんでこない。〈私の大切な家族のために差し出すべきもの。〉思いは理解できますが、抽象的な文章だから絵が浮かばない。描写をするには、目や耳や鼻など五感を総動員して、見たままをありのままに写生する。写生文が描写文の基本となる。
形あるものの描写・ないものの描写
形があるものの描写のコツは、主人公が見たものと同じ像を、読者の頭の中でも再現させること。そのためには細部や象徴的なところに注目し、その状態などを的確な言葉に変換していく。その際、見たものを端から言葉にしていくと膨大な量になってしまうので、どこを書いてどこを書かないか取捨選択が必要だ。
次に形がないものの場合。その代表が心理や印象、感覚だが、これらは形を持たないので、形にしてやる。たとえば、「やじろべえのように不安定な年頃」のように何か似たものにたとえる。また、「悲しい」なら悲しい表情や言動を書くことで悲しさを表現する。これは外側を書くことで内側を浮かび上がらせる手法だ。
小説になっていないと言われるパターン
作為がまるでない
小説は創作だから、実際にあったことをただ単に書いた自分史のたぐいと思われてはだめ。話はウソくさくてはいけないが、作為をもって作為がないように見せる。
話が破綻している
前半と後半で性格が違っても、状況次第ではそのほうが自然なこともあるからそれでいいが、ストーリーは尻切れだったり、支離減裂だったりしていてはいけない。
描写で書かれていない
人物の内面について「悔しい」「悲しい」と説明をするような書き方はNG。内面を書く場合は外側(情景) を書くことで内面を想像させるように書きたい。
視点がブレブレ
表現的な効果を狙って意図的にブラすならだが、視点という知識がないばかりに主人公の目で書いたかと思ったら急にの人物の目で書くようなことは避けたい。
誰の視点なのか、意識して書く
小説になっていないと思う1つの条件は、視点と語り手。視点というのは、情景を映しているカメラの役割をする人物の目という意味。目と言ったが、これは心の目でもある。
視点は、人物視点(一人称一視点、三人称一視点、三人称多視点)と神の視点とに分けられるが、圧倒的に多いのは人物視点。特定の人物の目で書いたほうが作中の状況を理解しやすく(基準があるから右左などの位置関係がわかり)、主人公の心に寄り添いやすく、感情移入もさせやすい。
むろん、どんな視点で書いても自由だが、作者の都合で視点を変えたり、同じ場面の中で急に切り替えたりすると読者は混乱する。
誰が語り手かも自覚しておこう
小説には語り手がいる。語り手とはナレーターで、『樽とタタン』で言えば、30年以上のちの「わたし」が物語の語り手だ。つまり、子どものときの「わたし」の目を借りて、大人の「わたし」が語っているという構図だ。注意したいのは、子どものときの「わたし」が昔を回想するように語ったらおかしいし、大人になった「わたし」が当時の会話を一字一句覚えているのも不自然ということ。語り手である「わたし」と視点人物である「わたし」は区別しないといけない。区別できていないと視点のブレになる。ブレてもいいが、ブレてしまって違和感と不自然さだけが残るというのではいけない。
語り手がいないかのように書かれる理由
語り手を通じて物語を読むのは言ってみれば伝聞と同じだ。つまり、 「世に も恐ろ しい男がいたそうです」と言われたのと同じで、読者はその男を直に見たわけではないので怖く もないし、 リアルでもない。 そこで語り手は舞台の袖に消えて、主人公に語らせる(というように読者には思わせる) 。そのとき、主人公自身の目で語ると、読者も主人公の目で作品世界を覗くことになり、読者自身も本当に「世にも恐ろしい男を見た」気になって出来事が目の前で起きている よう に錯覚する。語り手の存在を消して人物視点で書かれるのは、そうすると作品にリアリティーが出るからだ。
語りの基本のキ
人物視点の小説では、語り手は人物に密着している
『雪国』は三人称で書かれているが、視点は一人称と同じ一視点。「島村は」を「私は」に変えても違和感がない。
語り手は背後霊のように主人公に密着し、主人公の知覚を借りて語っている。この知覚は主人公の知覚であって語り手の知覚ではない。主人公を離れて語り手自身が語る場合は、違和感がないように自然に書く必要がある。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっばいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」〈川端康成「雪国」〉
神の視点では、語り手は人物から離れたり近づいたり
『蜘蛛の糸』は物語の外側にいる誰か(作者と考えてもいいが) が語っている神の視点。視点人物はお釈迦様、腱陀多と焦点移動するが、語っているのはあくまでも語り手で、「こちらは」という言い方にそのことが表れている。
人物への焦点化(人物になりきって書くこと) が甘いと、作品世界が遠く感じられる危険があるので注意したい。
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていた健陀多でございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。
〈芥川龍之介「蜘蛛の糸」〉
※本記事は「公募ガイド2018年4月号」の記事を再掲載したものです。