詩を書こう③:超ビギナーのための詩作入門3


STEP04:詩とは? 投影された内面である
目に見える風景は投影された内面
通いなれた道端に、泥まみれになって咲いている花があるとしよう。即物的には目に入っても、心がなければ、その人にとってはないも同然。目には映らない。
ところが、無意識にでも「泥まみれでも懸命に生きている自分」が心の中にあると、その思いが風景の中に映し出される。心の目が風景の中に自分を見出し、改めて風景を存在させる。
上の「さんたんたる鮟鱇」は、海辺の町などで多く見かけられたあんこう売りを書いた詩。少しずつ切り売りされ、やがてあんこうはなくなるのだが、それを「だんだん稀薄になっていくこの実在」と書いている。「くったりした死」の中に作者自身を見ている。
下の詩では、四坪半のぬかるみの中に閉じ込められたダチョウが書かれているが、これは自分らしさを否定されて生きている人問を象徴したものだろう。
2編とも、目の前にある風景の背後に自分や自分が生きている世界を見ている。
詩人にとっての風景は、ただの風景ではなく、それは自分そのもの。だから、心がなければ詩に書くべき何ものも見えない。
部分的比喩
たとえば、赤ちゃんのことを詩に書いて、その中で赤ちゃんの手のことを「もみじのよう」とたとえるのが部分的比喩。表現的比喩とも言う。一般的に言われる比喩は部分的比喩。
脚韻
題材にしたことそのものが何かのたとえ(まるでこれは私そのもののようだ)であることを全体的比喩、構造的比喩と言う。作品全体が投影された内面であり、象徴でもある。
STEP05:詩とは? 舞踏である
その場に留まって、一つのことを表現
散文には始まりがあって、終わりがある。構成で言えば起承転結で、作者は読者を引き連れて、結というゴールまで導く。それを目的として書く。
ある情景を書いて、それについて描写はするが、過不足なく表現できたら、起承転結の流れに従ってどんどん先に歩行していく。それが散文の作法。
一方、詩には決まった構成はない。どこから始まってもいいものであり、どこへも読者を連れていかない。その場に留まり、ある1つのことについて描写する。これが詩と散文の大きな違い。
それを端的に表した言葉が「散文は歩行、詩は舞踏」だ。左上の詩では、「寒い夜に手を洗っている」という情景しか書かれていない。これが詩の書き方の大きな特徴のひとつ。
「詩では人の一生は書けない。人の一日も書けない。書けるのはせいぜい一瞬である」と言う。詩ではこれを強く意識したい。
詩は言葉、詩は歌
俳句であれば「五七五」と形式の面から説明できるが、自由詩は自由だからそうはいかない。しかし、「詩は歌」と考えるとひとつのヒントになるかもしれない。
詩は言葉で書かれながら、一般的な文章とはまったく違う原理で書かれたもの。本能的に即興で口ずさむように、意味があるようでないようで、時に唐突に段落が変わる感覚の世界。
詩人は1音欠けただけでもそのズレを嫌い、語感にも過敏になる。それを無意識にやっている。
※本記事は「公募ガイド2018年7月号」の記事を再掲載したものです。