第45回「小説でもどうぞ」佳作 お裾分けが河童っぽい 一ノ本奈生


第45回結果発表
課 題
隣人
※応募数393編

一ノ本奈生
隣人の河野さんはおそらく河童である。
彼女がしばしばくれるお裾分けは、ほとんどがキュウリであった。あまりにもキュウリに偏り過ぎていた。言わずもがな、キュウリは河童の好物である。
他にカボチャ、トマト、アユ、アマゴなどもあったが、ネットで調べたところによると、これらも河童の好物らしい。
河野さんは、晴れの日には必ず日傘をさす。水生生物の河童にとって、渇きは死活問題なのだ。
雨の日にも会ったことがある。僕に会った瞬間、彼女は上機嫌になり、顔を綻ばせた。きっと河童の本能として、雨が嬉しかったのだろう。
お裾分けの回数が増えるにつれ「河野さんは河童なのではないか」という僕の妄念は固いものになっていった。
しだいに「河野さんは河童である」という仮説を証明するために、僕は彼女を毎日観察するようになった。
そんな観察を続けていたある日のことである。
その日は、昼過ぎから黒い雲が立ちこめ、夕方になると重い空気が町を覆っていた。
僕はいつものように壁に耳を押しあて、河野さんの行動を探っていた。
すると窓の外から、ごろごろと鉄の車輪を転がすような音が聞こえた。いよいよ雷が来るかと思った瞬間、ぴしゃっと空が光った。大気を割るかと思うほどの雷鳴が轟いた。ほぼ同時に隣室から悲鳴があがった。河野さんだ。
尋常ならざる叫び声。思わず僕は外に出る。河野さんの家のドアを叩く。
「河野さん、河野さん!」
返事はない。ノブに手をかけると鍵はかかっていなかった。
急いで上がりこむと、そこには気を失い、キッチンの床に横たわる河野さんがいた。
「河野さん!」
力なく横になる彼女のかたわらには、白い陶器の破片が散らばっている。
それは、間違いなく割れた皿の欠片であった。
僕は息を飲んだ。決定的であった。
河童と言えば皿である。きっと、河野さんは髪の毛の下に巧みに皿を隠していたのだろう。
今日は皿をさらけ出して、磨こうとしたのだ。そこに突然の落雷が鳴り、驚いた拍子に皿をどこかへぶつけ、割ってしまったにちがいない。
皿は河童にとって命も同然である。河野さんは瀕死の状態と見て間違いない。
一大事をさとった僕は、すぐさま彼女に駆け寄った。
口もとに耳を近づけてみると息があった。
「河野さん、しっかりして!」
体を揺さぶると、河野さんは目を開いた。
彼女はよろめきながら体を起こし、「ごめんね」と力なく笑った。
「最近、仕事が忙しくてあんまり寝れてなくて。フラフラしちゃったみたい」
彼女は、皿の破片をひとかけら摘まみ、
「ねえ、もしかして気づいちゃった?」
と意志の強そうな黒い目で僕を見た。一瞬怯みそうになったが、僕は正直に答えることにした。
「ええ、とっくに気づいていましたよ」
「そう」
目を伏せて、「実は、こういうの初めてだから、どうすればいいのか分かんないな」と彼女はつぶやく。
僕は察した。河童という正体がバレてしまった彼女は、きっと大きな不安に苛まれているのだ。彼女を安心させてあげたいと思った。
僕は彼女の手を握った。彼女の手は小刻みに震えていた。
「大丈夫ですよ」
彼女が潤んだ瞳を僕に向ける。
「大丈夫。僕は、河野さんが河童でも、決して偏見を持ちません」
「へ?」
「僕は河童を差別しません」
困惑した表情を浮かべ、河野さんは首を傾げた。
「私が河童?」
「もう隠さなくていいんですよ」
僕は、今までの観察による成果について説明した。呆気に取られていた河野さんだったが、みるみるうちに顔が赤くなった。こめかみにははっきりとした青筋が浮かび、握っていた手の震えは治まるどころか、より激しいものになっていく。
「——よって、河野さんは河童であると僕は結論づけました」
「そう、よく分かったわ。……出てってくれる」
「河童だということを、お認めになるんですね?」
プツンと何かが切れる音が聞こえたような気がした。次の瞬間、噛みつくほどの勢いで河野さんが口を開いて咆哮した。
「河童なわけないだろっ!」
叩き出された僕の背中に「竹井君はさ、河童のことよりも、女心を勉強するべきよ」と吐き捨てるように言って、河野さんは扉を閉めた。
閉じられた扉の前で僕は呆然と立ち尽くした。
なぜだ、どこで間違えた。混乱する頭を落ち着かせるように一連の顛末を振り返る。
たしかに彼女のかたわらには割れた皿があった。あれは河童の皿のはずだ。散り散りになった皿の破片には生クリームが付着していて、スポンジケーキが床に転がっていた。そういえば僕の名前が書いてあるチョコレートのプレートもテーブルの上にあった。そして、今日は僕の誕生日だ。だが、それらはまるっきり、彼女が河童であることとは、なんら関係がない。
いったい、僕はどこで間違えたというのか。
(了)