第45回「小説でもどうぞ」佳作 おかゆ 青の佑美


第45回結果発表
課 題
隣人
※応募数393編

青の佑美
熱はだいぶ下がった。
とはいえ、咳はまだしつこく残っていてリコはイライラしていた。それでなくても、うすい壁から聞こえる隣人たちの話し声にうんざりしているのに。
静かにしてよ!
リコは壁に向かってぼやく。はっきりと確かめたわけではないが、隣人たちは、リコがアパートに越してくる前からふたりで住んでいるっぽい。いつもがちゃがちゃと賑やかで楽しそうで、笑い声さえ上げる隣人たちのことが、リコは羨ましくて妬ましくて、迷惑していた。こんなふうに、ひとりぼっちで寝込んでいるときは特に。
この二日ほど、リコは風邪で会社を休んでいた。その間、上司や同僚たちから見舞いの言葉を受け取ったことは一度もない。時刻が昼休憩になろうと終業時間が過ぎても、スマホが受信するのは、どうでもいい芸能ニュースやポイントの通知ばかり。
こんなはずではなかった。今の会社に新卒採用されて、ふた月あまり。仕事にもそこそこ慣れ、同僚たちとも打ち解けた自分を想像していたのに、現実は違った。些細なミスで上司から怒られない日はないし、ぎらぎらした同僚たちの輪に入ることすらできない。黙々と仕事だけをこなし、アパートではテレビを相手に過ごす。引きこもりでもないのに、今日一日、誰とも喋っていなかったと、後になって青ざめたことも珍しくはない。
ふと、十年、二十年後もひとりぼっちの自分を想像して、リコはたまらず母に電話をかけた。風邪だと言うと、
「これからマコを塾に送らなきゃいけないんだけど」と迷惑そうに言われた。母は昔から、できのいい妹ばかりかまいたがる。相手を間違えたと反省したリコは、今度は地元で一番の親友にかける。風邪だと言うと、
「そっか、お大事にね。あ、そろそろ時間だから切るね」
これからなんとかというVチューバーのライブが始まるらしい。
今度こそショックで言葉が出なかった。誰も自分を気にかけてはくれない。
悲嘆に暮れていると、いきなり部屋のドアを叩く音がした。驚きと恐怖で、リコが息をのむようにドアを見つめていると、
「リンジンデス、リンジンデス」
若い男の声が聞こえてくる。
リンジン、隣人のことかとリコは理解する。隣人が何の用なのだろう。リコは怠い体を起こし、そろりとドアに近づく。チェーンをつけたまま少しだけ開けると、僅かな隙間からココア色の肌の、うっすら口ひげを生やした顔が目の前に現れた。
隣人は日本人ではない。留学生なのか、労働者なのかはわからないが、南国チックな見た目から東南アジア系の人なのだろうと、リコは推測している。隣人はどうやらひとりらしい。あとのひとりは部屋の中か。
「コレ、タベテ」
「え?」
いきなり差し出された半透明のタッパーに、リコは戸惑う。
「アナタ、ズット、セキガデテル。ヨクナイ」
聞こえてたのか。リコは驚くも、隣人の話声が聞こえるのだから当然だな、と思い直す。
「ダカラ、タベテ。オイシイ。ヨクナル」
隣人は言うと、ドアの前にタッパーを置いてリコの視界から消えた。残されたリコは茫然とタッパーを見下ろす。どうする。よく知らない隣人が作った、よく知らない食べ物。口にするにはかなりの抵抗がある。だからといって、食べ物をこのままにしておくのも気が引けた。迷った末、タッパーを部屋に招き入れることにした。
ベットに腰かけ、まだ温かいタッパーの蓋を開ける。ほわっと立ち昇る湯気の中から現れたのは、おかゆだった。そっと鼻先を近づけるも、風邪で鈍った嗅覚では何も匂わない。少し不安になったが、おかゆはおかゆなのだからと自分に言い聞かせる。だが。
うっ、げほっ。ひとくち食べた瞬間、リコはむせた。おかゆなのに甘いミルクの味がしたのだ。そのうえ香辛料っぽい味まで。これはいったい何。
検索すると、それはキールといって、ネパールやインドなどでは結婚式のような祝い事で出されるデザート的存在の食べ物だという。食べると運気も上がるらしい。
そうか、デザート。リコは納得して、ふたくち目に挑む。やはり微妙。もうひとくち。あれ、とリコは首を捻る。舌が慣れたのか違和感がうすれた。さらにひとくち。悪くないかも。もうひとくち食べると、甘いミルクに浸ったお米が乾燥した喉にするりと馴染んだ。
壁のほうから隣人たちの笑い声が聞こえてくる。いったい何がそんなにおかしくて笑っているのか。今日あった出来事について? 遠く離れた故郷の思い出話について? それとも、今ごろ目を白黒させているであろう、風邪ひきのリンジンについて?
なんだか、ふしぎ。リコは甘いおかゆをしみじみと眺める。ついさっきまで迷惑でしかなかった隣人たちの話声が、今はひどく心地いい。自分はひとりだけどひとりじゃない。そう思わせてくれているようでホッとしている。甘いおかゆのおかげかもしれない。
ありがとう、すごくおいしい!
リコは壁に向かって頭を下げた。
隣人たちはまだ笑い合っている。
そんなリコに微笑んでいるかのように。
(了)