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第45回「小説でもどうぞ」選外佳作 持つ者 太野咲

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第45回結果発表
課 題

隣人

※応募数393編
選外佳作 

持つ者 
太野咲

 無事、赤ちゃんが産まれた。マンション住まいなので、赤ちゃんの泣き声で迷惑をかけることもあるだろうと、引っ越しの挨拶で渡すような小さなクッキー詰め合わせを買って、上下左右の部屋の人に挨拶に行くことにした。退院したてほやほやの赤ちゃんを見せれば、泣き声も少しは我慢してもらえるはずだ。昔、マンションの騒音トラブルをなくすには、ルールで音を出さない時間を決めるなどするより、住人同士のコミュニケーションをとるほうがよいと聞いたことがある。
 ピンポーン。
 平日の昼間だが、右隣の家の奥様は在宅のことが多い。呼び鈴を押すと、インターフォンから「はい」と上品そうな声が聞こえた。
「隣の青木です。ご挨拶にうかがいました」
 赤ちゃんが産まれたご挨拶……と言うべきか悩んだが、ひとまずこれでドアは開けてくれるだろうとこれだけ言う。
 ガチャリ、とドアが開いて、四十歳くらいの女性が顔を出す。
「こんにちは、隣の青木です。突然すみません」
「いえいえ、あら、あら、ご出産? おめでとうございます」
 私の顔を見て、抱っこしている赤ちゃんを見て、奥様は少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。妊娠中はほとんど会うこともなかったので、私が妊娠していたことも知らなかったかもしれない。
 子供のいない夫婦だが、奥様は子供嫌いというわけではなさそうだ。
 少し安心して続ける。
「ありがとうございます。はい、出産しまして。泣き声などでご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」
 ご迷惑をかけるから我慢してくれ、という要望だけの挨拶なので気後れしつつ、夫を促してお菓子を渡させる。
「そう、おめでとうございます。赤ちゃんは泣くものですものね、気にせずに、お母さんもお体大事になさってくださいね」
 にこやかに受け入れてくれた。
 他の家にも後日も含めて挨拶を済ませ、赤ちゃんとの生活が始まった。日中は母親がきてくれるが、二週間だけ育休をとった夫に家事は任せつつ、赤ちゃんのお世話をする。赤ちゃんのお世話のたいへんさは想定内だが、産後の体はいうことを聞かず、赤ちゃんと同じように寝て過ごした。
 幸いよく寝る子で、夜中もほぼ毎日一回くらい、弱々しい声で「ふええ」と泣くだけで、ミルクをあげて抱っこしているとまたすぐ寝てくれたので助かった。
 一か月検診が済み、私も子供も外出できるようになった。三か月は産褥期さんじょくきといって、私の体が完全に回復していないので遠出はしないけれど、子供は外に出してあげようと、ベビーカーに乗せてマンションの下の公園へ行くことにした。まだ首も据わっておらず、やわやわな赤ちゃんは抱っこ紐が使えず、手で素抱っこだと落としてしまいそうで心配なので、新生児から使えるベビーカーを買っておいたのだ。
 ベビーカーを押してエレベーターホールへ行き、エレベーターを待っていると、右隣の奥さんが家から出てきた。
「おはようございます」
 互いに挨拶をし、
「赤ちゃん、うるさくないですか? すみません」
 先手を打って謝っておいた。生まれたてよりも泣き声は大きくなっている。実際どれくらい音が漏れているかわからないが、隣の部屋では、テレビなどをつけていなければ泣き声が聞こえていると思う。
「いえいえ、元気に育っているんですねえ」
 と言って、奥さんはベビーカーを遠慮がちにのぞき込む。
「まあかわいい」
 目尻を下げている。かわいいのは当然である。これだけかわいい赤ちゃんを見ることができて、あなたはラッキーですよ、と言いたいくらい、私の赤ちゃんはかわいい。産後の母親の頭はほぼ親バカになっている。
「ありがとうございます」
 本音は言えず、建前でお礼を言う。奥さんの様子から、泣き声は聞こえているかもしれないが、今のところ迷惑とまでは思っていないようで一安心だ。
「お出かけ?」
「いえ、下の公園で外気浴というか」
「そう、いい季節でよかったわね。今日は暖かいし」
 と会話をして、エレベーターを降りて別れた。
 隣がいい人でよかった。子供はいないようだけど、子供嫌いというわけでもなさそうだ。子供にとっての、近所のおばあちゃんって感じでずっと仲良くしていけるといいな。産後で頭がお花畑な私は、そんなことも考えていた。
 ある日、出産後初めて駅前のほうへ出かけた。外食はまだ無理でも、カフェでお茶くらいなら赤ちゃんがいてもできるかな、と思ったのだ。二年くらい前に見かけて、行ってみたいと思っていたカフェがあった。
 駅前のビルに入り、カフェのある二階でエレベーターを降りる。すると、エスカレーターに乗った右隣の奥さんが見えた。挨拶でもしようか……と思っていると、奥さんはさらに上の階へ向かうエスカレーターに乗っていってしまった。このビルの一、二階は商業施設となっているが、三階以上はたしかクリニックや会社が入っていたはずだ。なんとなく奥さんを目で追うと、三階にあるドアの一つへ入っていった。
 この子を授かるために通った、不妊専門のクリニックのドアだった。
(了)