第51回「小説でもどうぞ」佳作 ごちそうさまでした 七緒よう


第51回結果発表
課 題
寄生
※応募数339編
七緒よう
勝訴するたび、乾いた砂が音もなく崩れていく感覚を覚える。
窓に映る俺は、年齢には不相応な皺が眉間に刻まれ、下がった口角は、もはや上がり方を忘れている。のっぺりとした夜の街に重なった自分に異物感すら覚える。
弁護士の俺は、常に戦ってきた。子どもの頃はテストの点数で、学生時代にはスポーツの大会で。今では裁判が主な戦場となっている。勝つことで正しさを証明してきた俺には、笑顔も涙も共感も無駄に思えた。
俺は窓に背を向け、オフィスのドアを開けて部下のパラリーガルを呼ぶ。
「次の口頭弁論までに、この資料をまとめておいてください。あと、被告人に次の面会日も伝えておいてください。以上です。今日はもう帰っていいですよ」
「は、はい。分かりました。それにしても、今回の被告人、あんなに真面目で大人しいのに──」
「もう、帰っていいですよ」
「あ、すみません。お疲れ様です」
彼がバタンとドア閉めるのを見届ける。やや感情的だが、彼はよく働いてくれている。パソコンのモニターに目を移すと、モニターの上に腰かけた小人が目に入った。
「……なんだ?」
「ぼく? ルゥ。君たちが悪魔と呼ぶ存在だよ」
眉間の皺をさらに深くして見てみると、小さな角が頭にあり、背中にはコウモリのような羽がある。その羽の向こうで、先端が矢じりのようになったしっぽが揺れている。たしかに悪魔らしい。
「俺は悪魔に用はない。出ていけ」
「いやだ。お腹すいてるし、一旦寄生するとしばらく離れられないんだよ」
「寄生だと?」
口角がさらに下がったのを感じる。
「そう、寄生。ぼくたちは、人間の負の感情、怒りとか悲しみとか虚しさとかを食べるんだよ。だから、悪魔は寄生した人間を争わせたりするんだけど──」
「やめろ! 今すぐ消えろ」
「ぼくらもね、食べなきゃ消えるんだ。人間が怒るのをやめたら、飢えて死ぬ。それに、ぼくは自称ぐうたら悪魔だからね。わざわざ争わせなくても負の感情が溢れてる人間に寄生して、だらだらするのが信条なんだ。だから、あんたも気にせず普段通り過ごしてくれていいよ。ぼくは、宿主満足度ナンバーワンなんだぜ」
そう言うと、ルゥは俺の右肩に乗った。不思議と重さは感じない。
「どうせその満足度もお前の自称だろ?」
悪い夢を見ている。そう思いたかった。今まで裁判の相手側から「悪魔」と呼ばれたことは何度もあるが、まさか本当に悪魔が現れるとは。
俺の気持ちを知ってか知らずか、ルゥは声のトーンを落として言葉を続ける。
「今日の怒り、すごく苦かった。良かったよ。相手の原告代理人? あの人もいい感じに君の怒りを煽ってくれてさ。あれ、おかわりしたいな」
「……やめろ」
一瞬、声が震えたが、記憶に違和感を覚える。そうだ、俺は今日、感情を煽るやり口の原告代理人に怒りを覚えたはずだ。しかし、その記憶はあるが、記憶と結びつく感情だけがぽっかりとない。こいつ、本当に感情を食べたのか。負の感情が欠けた違和感と溶けかけの氷みたいなぬくもりが同時に存在していた。
寄生されて数日経ったある日、同じ事務所の同僚が言ってきた。
「最近、顔つき変わったな。案件が落ち着いた?」
「いや……たぶん、寄生されたせいだと思う」
同僚は、首をかしげる。俺はすぐに自分のオフィスに向かった。後ろから「それ、ヤバいんじゃないか」と声が背中に届く。俺は振り返らずに軽く片手を挙げてサムズアップで応えた。
オフィスに入り、ドアを閉めると肩に乗っているルゥが話しかけてきた。
「今日、会ってきた人、被告人だっけ? 怒りと悲しみがブレンドされてて苦くて良い香りだったなぁ。あの人、たぶん今まで悪魔に寄生されたことがないね。すごくピュアな香りだったから。ねぇ、あの人の感情も食べていい?」
「やめとけ。お前は俺ので十分だろ?」
俺は笑いながら答える。
「あのね、怒りより、悲しみを食べるときの方が味わい深いんだ。だからぼくは、悲しみの味がいちばん好きなんだ」
そう言って笑う小さな悪魔が、俺の負の感情を食べるたびに、笑っている自分が増えてきた。ただ、映画や小説を見ても、心の中は乾いた砂が流れるだけで、共感はできなくなっていった。
翌朝、ルゥはいなくなっていた。
テーブルの上に、『ごちそうさまでした』と書かれたメモがあった。
ルゥが座っていた右肩が軽い。左手でルゥの特等席を撫でる。手を下げると、胸の奥の、あの重たい孤独感と虚しさの塊が消えている。怒りも、悲しみも、形を失っている。
窓からは、通りを歩く人々が目に入った。
誰もがどこか、穏やかな顔をしているように見える。
「……みんな、寄生されてるのか」
昨日に続いて、今日も被告人との接見だった。
刑務官の後から部屋に入ってきた彼の表情は、心なしか柔らかくなったようだ。
彼が軽く笑いながら挨拶をする。
その顔は、少しルゥの笑顔に似ていた。
(了)