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ゆっくり書くと句読点が多くなる|テンマル多い派vs.少ない派

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小説
、(てん)と。(まる)の新ルール
特集

句読点の打ち方に決まりはないから人それぞれである。
今、書いたこの文章はこう書き替えることもできる。
句読点の、打ち方に、決まりは、ないから、人それぞれ、である。
では、なぜ句読点を打ったのか、もしくは、なぜ句読点を打ってしまったのか。
今回は、句読点の多寡について探ってみたい。

音読が前提にあると句読点が多くなる

童話の句読点

童話とは読んで字のごとく「子どものためのお話」だが、対象年齢が低くなればなるほど句読点が多くなる。
実例を見てみよう。

 ごうごうとたたきつけてきた。
 それは『雨』というより、
おそいかかる水のつぶたちだ。
 あれくるった夜のあらしは、
そのつぶたちを、
 ちっぽけなヤギのからだに、
右から左から、
力まかせにぶつけてくる。
 (きむらゆういち『あらしのよるに』)

大人向けの文章と比べると、やはりテンが多い。
子どもにゆっくり読み聞かせをしているような感じがする。
四つ目、五つ目のテンなどは、相手が大人だったらテンは打たず、

ちっぽけなヤギのからだに右から左から力まかせにぶつけてくる。

と一気に読ませたい気もする。
しかし、敢えてテンを入れた理由には、以下の二つが考えられる。

1. 子どもでも読みやすいように修飾語ごとにテンを打つ。
2. ひらがなが多いので、誤読しないようにテンを打つ。

もちろん、童話といっても小学校高学年向けとなると、使用する漢字に制限があるぐらいで、読点も大人の読み物とあまり変わらなくなるが、小学校中学年向けや幼年童話では、読み手が意味を飲み込めるように、ひと匙ずつ口に入れる要領で書く。

相手にちゃんと伝えたいと思えば、
「車にひかれたら大変だから横断歩道を渡るときは右見て左見てまた右見て渡ろうね」
とは一気に言わず、噛んで含めるように、
「車にひかれたら、大変だから、横断歩道を、渡るときは、右見て、左見て、また右見て、渡ろうね」
と言うだろう。それと同じだ。

日本国憲法の句読点

句読点の多い文章を探してみたところ、意外だが、日本国憲法がそうだった。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 (日本国憲法)

この前文の中でも、〈日本国民は、〉〈そもそも国政は、〉〈この憲法は、〉〈われらは、〉のように「は」のあとにはテンが打たれている。
しかし、「は」のあとは機械的にテンを打っているのかというとそうではなく、〈その権威は〉〈その権力は〉〈その福利は〉〈これは〉のあとにはテンを打っていない。

テンを打つ、打たないの基準は何かはわからないが、読んでみると、

・誤読を誘うようなテンはない。
・ややぶつ切りと思えるくらいテンが多めになっている。

という印象を受ける。
この理由について、山口謡司氏は『てんまる』の中で、

 声に出して、読んで、みんなが分かる、みんながこの憲法を共有するという意味で、おそらくこの前文は作られたのでしょう。
 (山口謡司『てんまる』)

と指摘している。
童話と同じように、相手にしっかり届けたいと思うとテンポが遅くなり、それに連れてテンも多くなるようだ。

語りの文章の句読点

小説は誰かしらが「語ったもの」という前提があるが、語り手の存在は空気のようなもので、読者にはほとんど意識されない。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。
 (川端康成『雪国』)

この文章の場合も、書いているのは作者だとわかるが、誰かが語っているかのようには書かれていない。
つまり、文章語で書かれている。
誰かが同じ体験をし、そのことを誰かに語ったかのように書いたら、こうはならないだろう。
〈この前、雪国に行ったんだけど、すごく長いトンネルがあってさ〉
なんて感じかもしれない。

実際に話す場合は、息がきれるから休む箇所、文章で言えばテンを打つ箇所が多くなり、言いよどんだり言い直したり、「……だったので、……だったけど、」のようにだらだらと一文が長くなり、そのたびに一呼吸入れる。
では、主人公自身が話すように書いた小説では、テンはどうなっているだろうか。

 もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。
(J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』/野崎孝訳)

やはりテンが多くなっている。
文章として読むことだけを考えると、
〈もしも君がほんとにこの話を聞きたいんならだな〉
〈実をいうと僕はそんなことはしゃべりたくないんだな。〉
のようにテンを省いたほうがすっと読める気がする。

しかし、それでは整然と話しすぎて、誰かが語っているかのようなライブ感がなくなる。
だから、敢えてテンを入れて、今ここで、実際に「僕」が「君」に語りかけているような感じをだしているのだろう。
実際に語るときは間が多くなるもので、それを文章で再現すれば必然的にテンが多くなる。

混乱した文章の句読点

テンが多い作家というと、真っ先に思い浮かぶのが太宰治だ。

 子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。
 (太宰治「桜桃」)

強調のためのテンではあるが、確かに多めではある。
少しテンを省き、
〈子供より親が大事と思いたい。〉
でもいい気がするし、
〈少くとも私の家庭においてはそうである。〉
でもいい気がする。

では、なぜ太宰治の文章にはテンが多いのか。
太宰治に限らず、芥川龍之介も川端康成も、昔の作家はぶつぶつ音読しながら書いていたと言われていて、そのため、テンが多くなる傾向があるそうだ。

つまり、語っているような文章ということになる。
〈何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。〉
このあたりは、なんだか太宰治に語りかけられているようでもある。
もちろん、すべての文章がそうであるわけではない。

 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
 (太宰治「葉」)

こちらはテンが少ない。
太宰治の文章は全般にテンが多めであるが、このように整然と書かれたものもある。
私たちは混乱、動揺しているときはすらすらとは話せないもので、そういうときに文章を書くとテンが多くなる。
冷静さを欠いているので、なんとなく書き出し、どっちに進もうかと迷う。そのときにテンが現れる。

太宰治の「葉」は、至極冷静に書かれており、混乱も動揺もしていない気がする。
〈死のうと思っていた。〉とは書いているが、〈夏まで生きていようと思った。〉ともあり、まだ余裕がある。
一方、本当に死ぬ間際になると、こんな落ち着いた文章は書いていられない。

 人間、失格。
 もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
 (太宰治『人間失格』)

〈人間、失格。〉というテン。
〈もはや、自分は、完全に、〉というテンの三連発。

完全に混乱し、動揺しているような印象がある。
『人間失格』は太宰治が亡くなる直前の昭和23年に発表された小説である。
死を目前にして混乱、動揺していたか、混乱、動揺している主人公を描こうとした。
このテンは、その結果、必然的に出てきたテンではなかっただろうか。