第51回「小説でもどうぞ」佳作 倒木 三浦行馬


第51回結果発表
課 題
寄生
※応募数339編
三浦行馬
実家の玄関に立ったのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。ふと天を仰ぐと、すぐそばに深い緑の山肌が迫っている。憂鬱を閉じ込めたようなこの色彩に懐かしさを感じた自分に驚き、笑ってしまう。小さく息を吐いてから呼び鈴を押すと、ベルの音が響き、間を置いて家の中から足音が聞こえた。すぐに扉が開いたが、現れたのは父ではなかった。俺よりも一回り若いくらいの男性だった。
「息子さんですよね、お待ちしていました」
そして彼は廊下の方を振り返り、「お客さまがいらっしゃいました」と遠くに呼びかけるように話した。
廊下はうす暗かったから、目を凝らしてようやく、人がいることに気が付いた。すぐに気が付かなかったのは、その老人がひどく小柄だったからだ。そこにいたのは、父だった。
お入りくださいと男に促され、俺は実家に入った。一応「お邪魔します」と言うと、男は「どうぞお上がりください」とほほ笑んだ。
廊下の先にいた父に先導されるように、俺と男はリビングへと向かう。父の足取りは小さくおぼつかなくて、まるで物心つかない子どものようだ。
父はいつのまにこうなってしまっていたのだろう。父の薄い髪と小さな背中をながめながら、俺は実家に戻らなかったこの十数年を思った。十八の頃に大学進学で家を出て、東京で就職してからは仕事をこなすだけで日々が過ぎ、気が付けば俺は四十五歳になっていた。最後に実家に戻ったのは、ちょうど十年前。母の葬儀の時だ。
十年前の父は、白髪こそ目立つようにはなっていたが、まだ昔の父だった。
父はかつて、山の男だった。山林の木々を伐採するためにチェーンソーと大鋸をかつぎ、険しい山道でも大柄な体を揺らして軽々と歩いていた。どれだけ大きな杉や樫の木でも伐り倒してしまうのが、あの頃の父だった。
だが、今はもう昔の父の面影はない。かつて俺は、進路や将来のことでいつも父といがみ合っていた。父を憎み、父の息子である自分のことも憎んでいた。
あの頃の父は、どこに行ってしまったのだろうか。
リビングで俺は男と父の対面に座った。が、すぐに父は椅子から降りて、リビングを出ていく。「眠くなったのでしょうね。きっといつものように和室で寝られるでしょう」と男がつぶやいた。はあ、と俺はあいまいに返事をした。
「紹介が遅くなってすみません。私は小村といって介護士をしています」
男は首から下げた名札を見せると、うやうやしく頭を下げた。こちらこそ、と俺も男に名乗り、名刺を取り出して渡した。男は三十代前半だろうか。介護職にしては細身で、非力そうに見えた。
「介護士の方が、なぜ家に?」
「三年ほど前から、訪問介護の形でお父様を担当しています。今日が訪問日と重なったことと、この地区の民生委員をしている母から、ご家族について知りたいと言われたので……」
「そうですか、父の体は悪いんですか」
「大きな病気はないのですが、二年半ほど前に足を骨折してから外出が減り、部屋で寝ている時間が増えました。加えて、さらに前からのことですが、認知機能も悪くなっています。とはいえ、もう高齢ですから自然なことではあるのですが……」
リビングの外から、があがあと音がした。そういえば父はいびきがうるさかった。あの小さな老人は、まぎれもなく父なのだ。
ふと、幼い頃の記憶がよみがえった。父と二人で、山の奥まで歩いたことがあった。日の光がまばらにしか届かない山中で、父がおもむろに立ち止まった。父が見つけたのは、朽ちて倒れ落ちた大樹だった。木肌は深緑色の苔に覆われ、陰には黄土色の茸がひしめいていた。老いて自らを支えられなくなった樹木は、他の植物やバクテリアに寄生され、その体を蝕まれる。
「こうなった木は、もう駄目なんだ」
そう言って、父は倒木を強く踏みつけた。木はばらばらと崩れ、細かな屑が散らばった。
父の自慢は、樹齢百年は優に超えた杉の大木を一人で伐り倒したことだった。父の身体は、樹木のように、大きく強靭だったはずだ。しかし、今では腰も曲がり、手足はやせ細って小枝のようだ。父の身体には老いというバクテリアが寄生しているのだろう。
そのとき、ガタッと小さく音が響いた。「もうすぐ起きてこられますね。起き上がろうとして、一度は失敗するんです」と男が言った。
その時、「春雄」と父の声がした。
父が呼んだのは、俺の名前だった。
「はい、今すぐ行きますね」と男が返事をした。
「え?」と俺は声が出ていた。父が呼んだのは、たしかに俺の名前だ。
「すみません」と男はばつが悪そうに切り出した。「実は、お父様は、一年以上前から私を春雄さんと思い込んでいるんです。記憶力も低下していましたし、春雄さんはこちらには来られないので、ついそのままにしてしまい……」
「春雄」ともう一度父の声が聞こえた。俺は男を父のもとへと向かわせた。数分後に、父がリビングに戻ってきた。父は俺を見ると、何も言わずに固まった。
「春雄、この人は?」と父が男に訊ねた。
「お客さまですよ、お父さん」と男は申し訳なさそうに俺を見た。
「そうですか、それはよくおいでくださいました」と父は俺に頭を下げた。
そこにはもう、あの頃の父はいなかった。そして、父の記憶の中で、俺はこの男に取って替わられたのだと気が付いた。俺もまた、あの倒木と同じ、バクテリアに寄生されて消えていくだけの存在なのだろう。
(了)