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第51回「小説でもどうぞ」佳作 義父の野菜 ともママ

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小説
小説でもどうぞ
第51回結果発表
課 題

寄生

※応募数339編
義父の野菜 
ともママ

 だから嫌だと言ったのに。
 封筒から取り出したA5のプリントを前に、私は呟いた。
 居間のカーテンが風で揺れている。窓の外は初夏の日が長いせいで、まだ少し明るい。
 息子のランドセルからプリントファイルを出し食卓テーブルに座ったのが、もう何時間も前のようだった。何度みても変わらないのに、目の前に広げたプリントを、また眺める。

 蟯虫検査 (+)陽性

 予想外の内容を頭が拒否しているのか、外国のニュースのように眺めていた。
 この手の集団検査で、私は引っかかった経験がなかった。もちろん大変なことだとわかっていたが、事務的に書面で知らされたことや、その後の指示がなくて、実感がわかないのだ。
 ただし、私にはひとつ確実と思うことがあった。義理の父が作る野菜である。

 義父は、定年退職後に家庭菜園を始めた。近所に住む私たちは、できた野菜を玄関先に届けてもらえた。唯一難点があるとすれば、義父が自然農法にこだわっていて、野菜にはどれも虫がついていることだった。
 義父によれば「虫がいない野菜の方が本当は怖い」らしいのだが、そもそも農薬や化学肥料は、公衆衛生の改善を目指して開発されたはずだ。もちろん環境問題や農薬残留といった問題があるだろうが、義父の理屈は世間一般と異なっているように思う。だから、義父の野菜が原因で蟯虫が寄生したのではないかと疑っていた。
 何より、義父のブロッコリーを茹でると、お湯にたくさんの虫が浮く。虫が多いと伝えてと頼んでも、夫は面倒くさがって取り合わない。虫と一緒に茹でたと思うと、ブロッコリーもほうれん草も食指が動かない。
 私はプリントを封筒に戻した。机の上で封筒を爪で軽く弾いたら、いつも夫が座る席まで滑っていった。

 窓の外が暗くなっていた。すぐに夕食を準備しなければいけない。
 椅子から立ち上がったが、体が浮かんでいるようでまるで実感がない。ふわふわとクラゲのように台所まで歩く。何を作るつもりだったのか思い出せないまま、手が冷蔵庫を開けているのを、離れた場所から眺めているようだった。
 野菜室には、義父からもらった小振りのキャベツが二つあった。虫食いの穴がビニール袋から透けて見える。葉をめくっていけば、穴の先に薄緑色の芋虫がいるはずだ。私はビニール袋の口を縛って、ゴミ箱に入れた。
 ふと、野菜室に入っていた別の野菜は大丈夫だろうかと思う。目に見えないもやに冷蔵庫が覆われた気がした。

 そのとき、スマホが震えた。
 小学校からの着信だ。さっきの封筒の件に違いなかった。不潔だと責められようが電話に出ないわけにいかない。
 スマホの向こう側は保健の先生だった。
「実は、うちの小学校で複数人の陽性者がでまして。学校内で広がったと予想しています」話は単刀直入だった。
 先生によれば、衛生的になった現代では食べ物が発生源になることはなく、大部分が人経由であるらしい。お尻に産み付けられた蟯虫の卵が、人の手を介して広がっていくという。
 息子が発生源かもしれないのを、隠しておくのはためらわれた。それでも数秒は逡巡してから、やはり正直に伝えることにした。
 保健の先生は「そのような事例は聞かないので、おそらく違うでしょう」と言って、少し笑ったようだった。
 黙り込む私に対して、保健の先生は抑揚のない声で続ける。おそらく今日で何回目かの説明に違いない。校医の診療所に行くこと、家族全員が検査を受けること、薬を飲めば確実に駆除できること。
 最後に先生は神妙な声になった。「決して不衛生という理由ではありませんが、デリケートな話なので本人や生徒には伝えていません。ご家庭でもご配慮ください」そう締めくくって、電話は終わった。

 どうやら、野菜のせいではなかったようだ。
 それなのに、なぜか結果票をみた後よりも落ち着かない気分になった。日が完全に落ちたせいか、炊飯器も冷蔵庫もよく見えない。
 いつの間にか息子が近くにいた。真っ暗な台所でしゃがみ込み、ゴミ箱に近付けた顔が白く浮かんでみえる。
「じいじのキャベツ、捨てちゃうの?」
 私は息子の顔がみたくて、台所の灯りをつけた。黒目がちの目が、こちらを伺うように見上げている。
「ママ、間違えて捨てちゃったみたい。持ってきてくれる?」
 息子は、弾かれたように笑顔になった。
「あのね、明日ね、中庭のうさぎ小屋に行くの。このキャベツ、持っていっていい?」
 透明感のある笑顔に照らされて、私の中にあったわだかまりが曖昧になっていく。
「一つ持っていっていいよ。無農薬だから、うさぎさん喜ぶよ」
 そう言える私が存在していたことに安心する。やったーと言いながら、息子は両手でゴミ箱のキャベツを取り出した。
「遅くなっちゃったから手伝って。今日はキャベツの虫取りをお願いしようかな」
「いいよ。ママが苦手な虫、ぼくが取ってあげるよ」
 私が野菜の虫を怖がっているのは、息子でも知っている。なんてことはない、それだけの話だったのだ。
 残るキャベツは、ぜんぶ生姜焼きの付け合わせにしよう。千切りをするために、私は包丁を取り出した。
(了)