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ビギナーズ小説大賞 佳作「ツクツクボウシ」

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作文・エッセイ
「ツクツクボウシ」
天川滴( 埼玉県・58歳)

郊外の幹線道路から少しばかり離れた新興住宅地の一角に、やや古そうだが五階建ての大きな病院があった。ここは元々小高い山の森であったが、今から三十年ほど前に鉄道会社の沿線開発の一環で宅地化された土地であった。時を同じくして、街の中心部にあった市立の総合病院が手狭となったため、ここに拡張移転されることになったのである。

開発の際、ほとんどの木々が伐採されたが、病院の裏手にあたる北側と西側の敷地には、当時からの生き残りの松や椎やドングリの大きな木が何本か残っていた。これらの木々は、スズメやヒヨドリの休息の場であると同時に、高台にある病院の下層階にとっては多少の西日よけや風よけの役割も果たしていた。

有野良行は、この病院の二階にある透析室のベッドに横たわって日課の点滴を受けていた。彼がこの病院に来たのは、一年半ほど前だった。

ある朝、目覚めて尿道から出血していることに気づいた。初めてのことだったので驚いた彼は、通っていたこの病院の泌尿器科を受診した。血液のPSA検査の結果、数値が高く前立腺癌が疑われ、前立腺の生検を受けることになった。

生検の結果、ステージ3の癌だと判明した。

医師の勧めにより、前立腺の全摘手術を受け、以来、この病院での入院生活が続いている。抗がん剤と放射線による術後治療も受けているが、経過は芳しくないらしい。医師からはっきりと聞かされたわけではないが、完治は難しいものと自覚していた。

「はい、終わりました」

男の看護師に声をかけられた。今日の分の点滴が終わったのだ。

昔は看護婦と呼ばれていたほど、看護師といえばほとんどが女だったが、近頃は男の看護師も増えてきた。この病院でも、三人か四人に一人は男の看護師だ。気のせいかもしれないが、夜勤する看護師は男の割合が多いように思われた。

良行を担当する看護師も交代制で四人ほどいるらしい。いちいち名前は覚えていないが、このうち一人が男だ。血圧計を腕に巻かれるときは女の看護師の方がなんとなく心地よい感じがするが、点滴や血液検査などで注射針を刺されるときは、男でも女でも、少しでも痛くないように上手く刺してくれる方がありがたかった。

入院生活も長くなると、曜日の感覚どころか日付、季節の感覚も薄れてくる。室内はもとより院内のどこも空調が効いるせいもあるが、何より生活自体が単調なのだ。ほぼ定期的な検査と治療を決められたとおりにこなすだけの毎日。部屋が殺風景なので、世界遺産のカレンダーも掛けてはるが、月が変わったのに気づかないこともしばしばだった。

このところ良行の体調は芳しくなかった。からだのあちこちに痛みが走るし、頭も常にぼうっとして、時おり違う自分が斜め上から自分を眺めているような感覚になる。自らすすんで何かをやるという気力も体力も既に失っていた。何しろ缶ジュースでさえ自分の指だけでは開けられず、スプーンの持ち手などを使わなければならなかったが、それでも容易には目的を達成できなかった。

病院の朝は早い。消灯が午後九時ということもあってか、朝の五時くらいになると廊下やら洗面所やらで人の動く気配がする。患者どうしや夜勤の看護師と挨拶を交わしたり、下品なうがいの音。どれもこれも、生来人付き合いが得意でなかった良行には煩わしいだけだった。 この病院に入院した当初、良行は六人部屋にいた。ベッドの一つは空いていたが、同室の四人の患者はいずれも良行より年上で、最高齢は九十二歳だった。彼らのつまらない世間話や合わないバイオリズムに付き合わされるのに辟易したし、イヤホンを使うとはいえ、消灯後に自分だけテレビを見続けることもままならない。たまらず、一番低いランクの個室に移ることにしたのだった。

個室といっても、シャワーもトイレもなく、あるのは洗面台と小さな冷蔵庫、地上波しか映らないテレビ、一人掛けのソファーとロッカーだった。それでもプライバシーが守られるので、良行にはありがたかった。

個室だと当然、差額ベッド代が要るが、勤め先の共済会から一部補助も出し、勤続三十年を超える良行にはそれなりの貯えもあった。

二人の子供も既に独立し、父親としての役目は終えた。生命保険にも入っているし、残される女房も何とか人並みの老後はおくれるだろう。自分で稼いだ金だ、少しくらい贅沢してもバチは当たるまい、と考えていた。

 

七月の長い梅雨間のある晴れた日。良行は、いつもの味気ない夕食を終えた後、見るともなく付けてたテレビのスイッチを切り、イヤホンを外すと、ベッドに横たわった。すると、良行のいる病室の窓とは反対の方から蝉の啼き声が響いてきた。

ツクツクオーシ! ツクツクオーシ!

オーシーツクツク! オーシーツクツク!

これでもかと言わんばかりに啼いている。声の主はツクツクボウシで、裏手のどこかの木にいるのだろうと思われた。

蝉という生き物は地上に出て成虫になってから、わずか一週間ほどの命だという。蝉は、何のために地球に生まれてきたのか。ただ子孫を残すためか。だとすれば、生殖行為こそが生きる目的であり、理由なのか……。

そんなことを考えていると、ドアをノックする音があり、女の看護師が入ってきた。三十代半ばくらいの見慣れた顔の看護師だ。名札には「川村由紀子」とある。

「有野さん、検温の時間です」

良行は事務的に体温計を受け取ると、脇の下に挟んだ。

「蝉が啼いているね」良行は独りごとのように呟いた。

「そうですね。セミの声って、うっとうしいですよね」と、由紀子は言った。

「そうだね……」

そうでもないと良行は思ったが、あえて否定はしなかった。体温計が小さく鳴ったので、脇の下から抜いて由紀子に向けて差し出した。由紀子は、覗き込むように前かがみになり、良行の手に健康的な白い手を伸ばしてきた。体温計を手に取る瞬間、わずかに良行の手に触れた。良行は思わず女の顔を見た。

「三十六度六分です。いいですね」

由紀子は体温計の数値を確認して言った。一瞬、視線が重なり、由紀子がほほ笑んだように感じた。

見慣れたはずだったが、メガネが邪魔をしていたのだろうか、よくよく見ると、やや丸みを帯びたかわいらしい顔立ちで、美人というほどではないが男好きのするタイプではないか。ナース服の下の胸の膨らみも、日本人としては平均以上のボリュームを想像させた。

部屋を出ていこうとする由紀子を目で追うと、尻も丸みを帯びていて、安産型だ。指輪はしていないようだったが、独身だろうか。仕事上していないだけか、結婚していないとしても彼氏はいるかもしれない。旦那か彼氏とは、どんな性行為をするのだろう。

良行の頭の中で、由紀子は裸だった。眼鏡もかけていなかった。由紀子は、たわわな胸を上下に揺らしながら、良行の腰の上で喘いでいた。しばらくすると一瞬こもった声になり、やがて大きく仰け反ると、かわいい顔に似つかない野太い唸り声をあげた。意識が飛んだ由紀子の下半身は、ピクンピクンと痙攣ししていた。少し間をとると、良行はまだ朦朧としている由紀子を裏返した。腰を持ち上げ、股を開かせた。高さを合わせて腰を沈める。由紀子が再び声を上げた。良行は力の限り由紀子の中心を何度も何度も繰り返し突いた。

ツクツクオーシ! ツクツクオーシ!

オーシーツクツク! オーシーツクツク!

閃光とともに脳が強烈な痺れに見舞われたあと、良行は我に返った。体を起こしてふと見ると、自分の右手はしなびた一物を握っていて、その先端から零れ出たであろう粘液が左の内ももと下着に付いていた。気怠さと軽い頭痛を感じながら、移動テーブルの上にあるティッシュ・ボックスに手を伸ばしてペーパーを何枚か手に取ると、自分の残骸を愛おしむように丁寧に拭った。そして、若い頃いつもしていたように色と匂いを確かめると、念入りにテッシュを重ねるように丸めて足元のごみ箱にそっと落とした。

ツクツクジーオー ツクツクジーオー ツクツクジーオー ツクツクジーオー ジジジジジジジジジィ……蝉の声が遠ざかっていく。良行は、全身を暖かい綿雲に包まれる感覚に囚われながら、いつもとは違う深い眠りに落ちていった。

(了)