角川春樹小説賞 その2


時代考証の間違い
今回は、前回に引き続き、角川春樹小説賞について論じる。
角川春樹小説賞受賞作でヒットしたのは、大半が時代劇である。なので、最終選考で、現代劇と時代劇がカチ合ったら、時代劇のほうに軍配が上がる可能性が高い。
「それなら、時代劇で応募してみたい。でも時代考証に自信がない」という人にも、角川春樹小説賞はお勧めである。なぜなら、選考委員にも編集者にも、1人として時代考証に詳しい人間がいないからだ。
選考委員長の北方謙三は時代劇を量産しているが、不勉強で、時代考証に無知である。
第4回の最終選考で、北方は候補作の1つに「京都に所司代はあるが、町奉行所はない。ちゃんと時代考証を勉強しろ」と酷評して落としたが、間違っていたのは実は北方のほう、というお粗末。
『鬼平犯科帳』の主人公の長谷川平蔵の父親が京都西町奉行で、平蔵が京都に行くエピソードが、何話かある。京都に町奉行所があるのは常識のレベルで、つまり、北方は時代考証も知らずに時代劇を書いている厚顔無恥ということになる。
で、今回は、第9回受賞作の『乱世をゆけ――織田の徒花、滝川一益』(佐々木功)を取り上げる。時代劇の新人賞受賞作で、これほど時代考証が間違っている作品に出会ったことがなく、つくづく呆れ果てた。
始まって2ページ目に「秀吉の頭に走馬灯のように苦難の日々が蘇る」とあって「これは、とんでもない作品だぞ」という思いを強くした。走馬灯は江戸時代になって中国から渡来したもので、文献に出て来るのは、宝永四年(一七〇七)が最初である。秀吉の頭に走馬灯など、思い浮かぶわけがない。
その少し前に「石田佐吉三成」が出て来るのだが「石田治部少輔三成」でなければならない。
この時代の日本人男子の名前は「苗字+通称(官位があれば官位)+諱」という3層構造で、官位を貰ったらそれまでの通称は使わなくなる。この2つだけで、作者の佐々木が、時代考証に関して、とんでもない無知蒙昧の人間だと分かる。
また、会話では基本的に諱を出さないのが鉄則である。諱は「忌み名」に由来し、これを敵に知られると呪殺されるという迷信があった(幕末の薩摩でも、実際に島津斉彬に対して呪殺が行なわれ、その辺りが直木三十五の『南国太平記』に描かれている)。
この辺りは『三國志演義』でも読んでいれば即座に分かる「常識」なのだが、『乱世をゆけ』では通称と官位と諱がゴチャ混ぜに使われていて、佐々木が無知ぶりを露呈している。
それから2音までの女性名には、台詞では「お」の敬称が必要なのだが、佐々木は「お」が敬称の接頭辞ではなく名前の1部だと思い違いをしている。つまり「お」の付く女性と、つかない女性が、ゴチャ混ぜ。
前田利家の奥方は「おまつ」と出ていて、秀吉の奥方は「ねね」と出て来る。もう、呆れるばかり。
「忍び仲間」という言葉も頻出するが、「仲間」は、明暦3年(1567)の造語で、最初は「同業者団体」の意味で使われ、それが「友人・同輩」のような意味で使われるように拡大していったものである。
戦国時代には言葉が存在しないのだから「忍び仲間」という概念など、あるわけがない。
「視線」も頻出するが、これは慶応3年(1867)のオランダ語Gezichetslijnからの翻訳造語だから使ったら駄目である。「空気」も頻出するが、これもまた嘉永2年(1849)オランダ語Lugtからの造語なので使って良いわけがない。
ちょっと百科事典の類に当たれば容易に分かることを調べない、あるまじき創作態度と言わざるを得ない。
また設楽原合戦(俗に「長篠合戦」)で信長は3500挺の鉄砲を用意し、500挺を予備に回して3000挺で武田軍を撃破した、などと書いているのだが、信長は四苦八苦して、どうにか1000挺しか投入できなかったのである。
これは、最も資料価値が高いとされている『信長公記』に書かれていることで、佐々木は、巻末の参考文献の筆頭に『信長公記』を出しているのだが、格好つけに出しただけで、実際には読んでいないことが歴然である。設楽原合戦の3000挺の鉄砲は、資料価値が低くて信頼が置けないとされる小瀬甫庵の『信長記』に出て来る数字である。しかし、小瀬甫庵の『信長記』は、佐々木の参考文献の一覧にない。
「戸惑う」も頻出する。これは明治25年の尾崎紅葉の造語。そもそも「戸惑い」は、寛延3年(1750)に俳諧『武玉川』に初めて出て来る言葉なのだが、「入るべき屋敷や部屋の入口(戸)の位置が分からずに惑う」という意味だった。
江戸時代には門に表札を掲げる習慣がなかった(商家の看板は別)から、似たような屋敷が並んでいる場所に入り込むと、区別が付かなくて「戸惑う」ことが多く、それで江戸では屋敷の住人名やランドマークの神社仏閣を書き込んだ切絵図が一大ベストセラーになったのである。
ここで思い出すのが、やはり角川春樹事務所主催で行なわれた小松左京賞(2009年に打ち切り)の第6回受賞作『神の血脈』(伊藤致雄)で、主人公が目当ての武家屋敷を探し出そうと、1軒1軒、次々に門の表札を確認して回るシーンがあって、呆れてしまったことである。
この当時から、角川春樹事務所は時代考証に関して完全無知だったわけである。時代考証に自信がない人も、安心して角川春樹小説賞に挑んで欲しい。時代考証が出鱈目でも、アクション・シーンに迫力があって主人公のキャラが立っていれば、射止めることができる。
プロフィール
若桜木虔(わかさき・けん) 昭和22年静岡県生まれ。NHK文化センターで小説講座の講師を務める。若桜木虔名義で約300冊、霧島那智名義で約200冊の著書がある。『修善寺・紅葉の誘拐ライン』が文藝春秋2004年傑作ミステリー第9位にランクイン。