公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

純文学って何?エンタメ小説との違いは?徹底解説!

タグ
小説・シナリオ
小説
テーマ別公募
Pickup!

純文学は芸術性に重きをおいた小説、エンターテインメント小説は娯楽性のある小説と言いますが、「何が違うの?」と思う人も多いでしょう。 そこでここでは、どうしてそんなカテゴリーが生まれたかまで遡り、自分が書きたいのはどちらなのか、どちらのカテゴリーの文学賞に応募したらいいのかを解説します。

純文学はアンチ大衆小説

書店の店頭では、純文学とエンターテインメント小説(略して、エンタメ小説)の区別はもうないように思います。 それなのに、なぜこのカテゴリーがあるのでしょうか。

純文学という言葉自体は明治期からありましたが、強く意識されたのは大正後期です。 日本では関東大震災をきっかけに、それまであった通俗小説と歴史小説をまとめて大衆小説(今でいうエンタメ小説)と呼称し、大人気となりましたが、急速に発展したため、一部の秀作を除いて粗製乱造の観はいなめませんでした。

少し時代を下りますが、百目鬼恭三郎は戦前から戦後にかけて書かれた娯楽読み物小説を評し、〈“読者に頭を使わせずに、低俗な欲求を満たすことだけが要求され、従って文章は下品でなければならず、登場人物は紋切り型で、月並みな行動パターンと、必然性のないご都合主義の筋書きに乗って動くのが特徴”である。〉と言っていますが、戦前の大衆小説にはそうした粗さがあったのです。

そのため文学の書き手は自分たちと大衆小説家を区別しました。
芥川龍之介は「亦一説?」の中で、こう言って大衆小説家を挑発しています。

〈大衆文芸家ももつと大きい顔をして小説家の領分へ斬りこんで来るが好い。さもないと却つて小説家が(小説としての威厳を捨てずに)大衆文芸家の領分へ斬りこむかも知れぬ。〉(芥川龍之介「亦一説?」)

芥川は「小説家」と「大衆文芸家」と言い、両者を別ものとしてカテゴライズしました。 「純文学は、大衆小説とは違う」としたわけです。
しかし、反大衆小説ではあっても、純文学作家の作風や主義主張は、理知派、新感覚派、白樺派、耽美派、自然主義以来の私小説などいろいろあり、同じではありませんでした。

純文学は大衆小説とは違うという線引きをしただけで、作風はいろいろだった

ハイブリッド小説の誕生

そこに来て、戦後になると、ますます純文学と大衆小説(エンタメ小説)の差がなくなります。原因は、純文学の衰退と中間小説の誕生です。

戦前までは純文学も売れていました。流通自体が少なかったですし、知識人たちは貪るように文学に親しみました。
しかし、戦後になると出版物が多く出まわり、読むものを選べるようになると、取っつきやすい娯楽読み物のほうが売れるようになり、純文学は売れなくなります。

そこで出版社は、純文学作家にエンタメ小説を書かせます。それが純文学にしてエンタメ小説というハイブリッド小説です。
これは中間小説と呼ばれ、最盛期には100万部の市場を誇りました。

今、中間小説という呼称はなくなりました。世の中の大半の小説が中間小説だから、敢えてそう区別する必要がなくなったということでしょう。
ならば、純文学もエンタメ小説もないのかというと、必ずしもそうではありません。境界こそボーダレスですが、グラデーションの両端は全然毛色が違います。

芥川賞作家の平野啓一郎さんは、
〈「純文学とエンタメ小説の境界があるのは日本だけ」と言う人がいますが、それはウソ。ノーベル文学賞の候補にミステリーなどのジャンルは入らないですから、線引きは厳然としてあります。〉(公募ガイド2021年12月号)
と言っています。

また、直木賞作家の白石一文さんも、
〈小説が100冊あったとして、これを純文学かエンタメ小説かに分けろと言われたら、全部分けられる。〉(公募ガイド2020年3月号)
と言っています。

もちろん、分けられると言っても白か黒かはっきりしているわけではなく、「これは6:4で純文学系」といった微妙な差です。純文学にもエンタメ性はありますし、エンタメ小説にも文学性があります。 それをもって「差がある」と考えるか、「差がない」ととらえるか。それはひとえに個人の受け止め方にもよるでしょう。

文学賞には純文学系とエンタメ小説系がある

世間一般ではもう純文学もエンタメ小説もなくなっていますが、文学賞となると、純文学系、エンタメ小説系というカテゴリーがでてきます。 それは小説を載せる雑誌が、純文学系の文芸誌と、エンタメ小説系の小説誌に分かれるからです。

純文学系文芸誌は5誌あり、それは「文學界」「新潮」「群像」「すばる」「季刊文藝」です。
これらの文芸誌が母体となって公募している文芸新人賞が、文學界新人賞、新潮新人賞、群像新人文学賞、すばる文学賞、文藝賞で、芥川賞候補作の多くはこの5誌に掲載された新人の作品から選ばれます。
太宰治賞は文芸誌を母体としませんが、これも純文学系文学賞と言っていいでしょう。

エンタメ小説の文学賞には、小説すばる新人賞、小説現代長編新人賞、松本清張賞、メフィスト賞、小説 野性時代新人賞、ポプラ社小説新人賞、日経小説大賞、角川春樹小説賞があります。これらはノンジャンルの文学賞です。

ほか、ミステリーや歴史小説などジャンル小説の賞もありますが、それは置いておくとして、問題は純文学系の文学賞とエンタメ小説系の文学賞のどちらに応募すればいいかです。

「自分は純文学を書いている」「私はエンタメ小説を書いている」という意識がある人は迷わないと思いますが、「どっちかわからない」という人は困ります。リトマス試験紙でもあれば便利なのですが。

高橋源一郎さんは、純文学とエンタメ小説の違いをこう説明しています。
作品と読者の間に100メートルの距離があり、どちらかが歩み寄らないと読めないわけですが、読者が歩み寄らないと理解できないのが純文学、作品のほうから歩み寄ってくれるのがエンタメ小説……。
という基準で見ると、あなたの作品はどちらになるでしょうか。

形式に保守的か、新規性が高いか

純文学とエンタメ小説の差は、形式に対して保守的か、新規性があるかでも測れます。 エンタメ小説の元祖は、騎士道物語です。
騎士道物語はロマン語(英語などのラテン語の口語)で書かれていたためにロマンと呼ばれ、その内容は以下のようなものです。

・騎士が旅をしていると、女性が泣いている。

・聞けば、この村は毎年ドラゴンに生贄を差し出しているが、今年は彼女の番だと。

・そこで騎士はドラゴンと対決し、これを討ち果たす。

・騎士は女性と結ばれる(または、次の目的地へと去っていく)。

世界中にある物語形式の典型です。
具体的に言うと、何か出来事が起き(問題が生じ)、それを解決することで話が完結するというのが特徴です。

エンタメ小説は内容こそ千差万別ですが、形式に対しては保守的です。
事件が起きたのに謎が解かれないミステリーはありませんし、問題があるのにそれを放置したまま終わるエンタメ小説もありません。
しかし、純文学にはそうしたストーリー性を無視した作品もあります。

純文学は既存の文学を否定し、逆に逆にと進化してきました。
その根本には哲学的問いがあります。
哲学的と言うと難しそうですが、要は「小説とは?」「人間とは?」「時代とは?」といった問いです。

純文学作品はその問いに対する「自分なりの答え」であり、ストーリー性を犠牲にしてでも問いに答えることを優先するのが純文学です。 だから、純文学には、ときどき形式をぶち壊したぶっ飛んだ作品が現れます。

古くは夏目漱石の『吾輩は猫である』もストーリー性のない斬新な小説でしたし、20世紀後半に登場したフランスのヌーヴォー・ロマンもそうです。
つまり、形式に対して保守的なのがエンタメ小説、形式から自由になろうとするのが純文学と言えるのではないでしょうか。

以上、純文学とエンタメ小説の違いを挙げてみましたが、やはり、感覚的なものではあります。
最終的には、自分の作品だけ見て判断するのではなく、「文學界」「新潮」などの文芸誌に掲載された作品と、「小説現代」「小説すばる」などのエンタメ小説誌に掲載された作品を読み比べ、どちらがより自分の作風に近いかで判断するしかありません。

物事はたくさん経験しないと微妙な差がわかりません。100回しか素振りしたことがない人には今のスウィングとそれまでのスウィングの微妙な違いはわかりませんが、100万回素振りをした人にはわかります。
わからない人は、わかるようになるまで頑張って読みましょう。いつかきっと、「ああ、これは純文学だな」とわかるときが来ます。