エッセイを書く勘どころ⑦:エッセイの書き出しと終わり方の工夫
エッセイには入り口と出口が必要です。そこでプロの物書きはどのように書いているのか、実例を通して解説します。
プロはどう書き出しているか、実例を見て参考にしよう!
ここでは、手元にあったエッセイの中から、先が気になるような書き出しをしているものを紹介します。
メールで訃報が届き、思わず「えっ」と声を上げた。
『ベスト・エッセイ2016』所収、井上荒野「流れていく死」
私のところの飼犬は柴犬のオスで、まだ半歳を過ぎたばかりの幼犬だが、どこでおぼえたのか時々いかにも思慮深げにため息をついてみせるという小こしゃく癪なくせを持っている。
三浦哲郎『おふくろの夜回り』所収「犬のため息」
朝、目が覚めたとたんに、脈絡もなく妙なことを思い出したりすることがあるもので、今朝は――と言っても、もう昼近くだったが――「そうだ、昨夜、私にだけ、あの蛸の吸盤の焼いたやつくれなかったな」と気が付いたのだった。
『ベスト・エッセイ2016』所収、奥本大三郎「蛸の吸盤」
名前の書き間違いは絶対に記憶が合っている、と思っているときこそ起きる。人名は正確に書くのがマナーなので、不安な場合は何かしらの方法でちゃんと確認してから書く人がほとんどだろう。確認なんて必要ないと思っているときこそ、うっかり落とし穴にはまる。
『ベスト・エッセイ2016』所収、綿矢りさ「うろ覚えの脳の不思議」
松本清張氏の短篇に、毎晩ひどいいびきをかいて仲間を眠らせないので、とうとう殺されてしまう男の話がある。
三浦哲郎『おふくろの夜回り』所収「いびきの話」
夏もそろそろ終わりだ。皆さん、夏裁判への準備は万全だろうか。
『ベスト・エッセイ2016』所収、朝井リョウ「夏裁判」
書き出しは凝らなくていい。「?」があればなおいい
書き出しは重要です。できれば、先が読みたくなるようなことを書きたい。
しかし、実際にプロが書いたエッセイの書き出しを見ると、思いのほか普通です。むしろ、普通すぎるくらい普通に書いています。そのほうが早く本題に入れるからだと思いますが、その中でも「いいな」と思う書き出しには「?」があります。
「いびきで殺される?」「犬がため息をつく?」「夏裁判って何?」などなど。
意外と少ないのは、セリフで始める書き出し。これはプロにはあまり実例がありません。たぶん、いきなりセリフから始まるのは、ある時代までは一種の禁じ手だったのではないかと思いますが、その禁を破った人がいて、それがインパクト大で、みんなまねするようになったのではないかと。
やっても問題ありませんが、説明なしにセリフに入ると「誰が誰にどんな状況でなぜ?」という疑問が出ますので、やるなら、セリフの直後にきちんと状況説明を入れましょう。
終わり方は器械体操の着地のようなもの
エッセイの終わり方は器械体操の着地のようなもので、ここがうまく決まるとすべていいような気になります。
いろいろなパターンがありますが、特徴的な実例を挙げてみましょう。
全体をまとめる
最後に全体を通じたまとめを書いて終わるパターン。まとめであると同時に、何か深いことを言っていると、「なるほど」となります。
自分以外の誰かから賛美されないと、自分が生きてきた時間を誇ることができない――この感覚がさらに突き進むと、遺影がデジタルフォトフレームによるスライドショーにでもなりそうだ、と思っていたらすでにそんなサービスは始まっていた。人生裁判、という言葉が頭の片隅に過よぎり、私の夏は終わった。
『ベスト・エッセイ2016』所収、朝井リョウ「夏裁判」
書き出しに呼応
印象的な書き出しがあり、その後、本文の中ではそのことにはほとんどふれず、最後になって書き出しの内容に戻るパターンです。
最初と最後が呼応しているので「首尾一致」と言います。最後に強引に最初の話題に戻ると、意外とうまく決まります。
(書き出し)
一九六〇年代のにおい、というと、煉炭の灰の、しけたにおいを思いだす。
(終わり方)
アパートの路地に、点々と煉炭の灰が捨てられていた。あの時の灰のにおいを忘れない。『人間はすごいな』所収、出久根達郎「煉炭灰のにおい」
唐突に終わる
転が終わったら結なしで終わるパターン。文章としては完結していますが、最後にまとめがあるだろうと予想していたところ、それがないので、急に終わった感じがして余韻が出ます。
砂場で遊んでいた息子が赤いスコップを投げ捨て、いつのまにかよちよちと私
のところに歩いてきていた。両腕でジーパンの足に抱きつき、顔を私の膝頭に押しつけている。私はかがんで、脇に手を差し入れ、息子をひょいと抱き上げた。
「君たち、かしこいね」『ベスト・エッセイ2016』所収、マイケル・エメリック「保育園、送り迎え」
オチをつける
最後に笑いをとって終わるパターン。蛇足といえば蛇足ですが、楽しく終われます。
わたしはいまだに、このアパートに住んでいる。ときどき庭仕事をしているわたしに、大家は「足を向けて寝られません」と感謝の言葉をかけてくれるのだが、彼女は一階に住んでいるから、二階に住んでいるわたしに足を向けて寝ることなど、できるはずがないのである。
『ベスト・エッセイ2016』所収、佐々木幹郎「人という『灯り』」
結は長くならないこと
テーマが浮かんでくるのでなければないでいい
エッセイの終わり方は、そこまで書いてきたことを総括して、「だから、こうだ」とまとめるパターンが定番です。
一番よくないのは、結で決めの言葉を書こうして、決めきれずに長くなるパターン。
著者としては何か言い足りず、これでもかと文章を連ねますが、起承転がしっかり書けているのに、結で同じことを繰り返せばくどくなります。
結が長くなりそうなら、結を見直すのではなく、その前段を見直しましょう。問題はそこにあります。
一番いいのは、まとめのようなことは書かず、さらっと終わること。結なしで終われるなら、それが理想的。
通常、エッセイの読み手は、「最後にまとめがあるだろう」と予想して読んでいます。だから、結がなく、出来事だけ書いて終わると、「著者は何が言いたかったんだ?」と勝手に行間を推測します。
結がなければ、代わりにテーマが浮かび上がってくるということです。
COLUMN
エッセイ以前の漢字表記
エッセイ以前の漢字の表記漢字の表記は、文芸作品では基本的には書き手の自由でかまいませんが、漢字使用の目安を示した常用漢字については知っておいてほしいと思います。
とくに最近はワープロ原稿が多いため、不用意になんでも変換してしまう傾向があります。
上記の作品でも「抉る」とありますが、難読です。漢語はなんとなく意味がとれるところがありますが、和語が読めないとどうにもなりません。
この漢字、読めるだろうか、読めなかったら困るのではないかという配慮があれば、「えぐる」と書くことを選ぶのではないでしょうか。
常用漢字については、文科省のホームページでも確認できますが、ものを書く人は必ず用語用字辞典を入手し、難読ではないかな、送り仮名はこれで合っているかなと思ったら、必ず確認するようにしてください。
最初は面倒ですが、半年もすればだいたいのものは覚えてしまいますし、覚えてしまえば一生の財産になります。
そのうえで、常用漢字ではないけど、あえて使うと判断する分には個人の好みでよいと思います。
エッセイ以前の表記の統一
エッセイなど文章を書く場合は、表記を統一します。最初に「私」と書いて、次は「ワタシ」、その次は「ぼく」と書くような不統一は避けます。
ただ、報道の文章などとは違い、エッセイの場合はどう書いても著者の自由というところがあり、たとえば、ここはいかにも硬い雰囲気だから漢字で「雰囲気」と書き、ここはくだけた場面だから「フンイキ」と書こうという人もいるかもしれません。
しかし、そうした書き分けにはさしたる意味があるとは思えませんし、また、「表記を統一しなければならない」という意識がないのなら、この機会に改めましょう。
そうでないと、「今までは『エッセイ』と書いていたのに、ここにきて『エッセー』と書き出したけど、何か意味が違うのか」と深読みされるかもしれませんし、下手をしたら、「この著者は表記の統一ということを知らないのだ」と侮られてしまいます。
公募の審査では、これはちょっとだけ不利です。
※本記事は「公募ガイド2016年11月号」の記事を再掲載したものです。