セリフ完全マスター3:セリフと視点


全知視点
視点というのは、VIEW POINT、つまり、作中の情景をどこから映しているのかということです。
大別すると、視点には、
- 全知視点(作者視点)
- 一元視点(人物視点)
の二つがあります(多元視点というのもありますが、ここでは省略します)。
1の全知視点の場合、情景を写しているカメラは天上にあります。あるいは、どこへでも移動します。このカメラには、どんな人物の心も映ります。なんでもかんでも書けます
小説家は、あらゆる人間のうちで、最も神に似ている。彼は神の模倣者である。彼は生きた人間を創造し、運命を工夫し、それらに事件や災厄を配し、それらを交錯させ、終局へと導く。
(モーリヤック「小説家と作中人物」)
全知視点は、このような全能の神のような立場で物語を語っていきます。作者視点、神の視点とも言われます。
庄助は、英国商館の庫に積まれている黄色い羅紗生地のことを考えた。
(あれは、売れなかった)(司馬遼太郎『韃靼疾風録』)
司馬遼太郎のように神の視点で書いた場合、地の文に書いたことは作者による説明です。ですので、地の文と人物の内面のセリフを一緒にすることはできませんので、パーレン=( )で括ります。
一元視点
2の一元視点では、特定の人物の目や耳にカメラの役目を負わせます。人物が肩にカメラを担いで情景を映すような視点です。人物に視点がありますから人物視点とも言い、この人物が一貫して一人の場合、一元視点と言います。
ちなみに焦点化された人物のことを視点者、視点人物と言い、世の中の大半の小説は人物視点で書かれています。
一元視点(一人称一元視点、三人称一元視点)の場合、作中にあるすべての文章は、視点人物が知覚したことになります。これが全知視点との大きな違い。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」(川端康成『雪国』)
この小説を書いたのは川端康成ですが、作中の情景を知覚したのは主人公の島村という男です。ですので、この小説は以下のような意味になります。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった(のを島村は見た)。夜の底が白くなった(と島村は感じた)。信号所に汽車が止まった(と島村は思った)。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した(のを島村は見た)。雪の冷気が流れこんだ(と島村は感じた)。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように(しているのを島村は見た)、
「駅長さあん、駅長さあん。」(という声を島村は聞いた)
一貫して島村(視点人物)の心に映ったもの――島村が見たもの、聞いたもの、感じたこと、思ったことが書かれています。これが人物視点です。
この場合、視点人物が見たもの、聞いたものと、心の中で思ったことは同じ次元、同じ平面上にあります。ですから、神の視点で書かれた司馬遼太郎作品のように内面のセリフを地の文と分け、パーレンで括る必要はありません。
ストリップ・ショーのステージにでも立っているみたい、と彼女は思った。いいわよ。見たいだけ見ればいい。渋滞に巻き込まれてきっと退屈しているんでしょう。でもね、みなさん、これ以上は脱がないわよ。今日のところはハイヒールとコートだけ。お気の毒さま。
(村上春樹『1Q84』)
人物視点の場合、作品に書かれたことはすべて人物の心に映ったことです。だから、このように地の文の中にカッコなしで内面のセリフを書くこともできます。
これを自由間接話法と言います。
セリフは人物に聞こえた音
人物視点の場合、直接話法で書かれたセリフは、視点人物の耳が捉えた音ということになります。この場合、聞こえ方にも視点人物の主観が入ります(視点人物の主観であって作者の主観ではありません)。
メザキさん、おしっこしたいの。小さな声で言った。(中略)
道ばたの草むらに踏みいった。一歩踏みだすたびに、草の上のこまやかな水滴があしくびに飛んだ。道よりもずいぶん奥に入ってから、スカートを腰までめくりあげ、したばきを下ろした。しゃがむと草が尻をつついた。(中略)
出はじめると、とめどなく出た。さやさやいう音をたてて、雨と一緒に葉をぬらした。目を閉じて、放尿した。(川上弘美「さやさや」)
『溺レる』に収録された短編です。おしっこが草に当たる音を「さやさや」と書いていますが、これは主人公のサクラにはそう聞こえたという意味です。
前出の川端康成の『雪国』でも、
「駅長さあん、駅長さあん。」
というセリフが出てきましたが、これも視点人物の島村には、「駅長さん」でも「駅長さーん」でもなく、「駅長さあん」と聞こえたという解釈もできます。
セリフの限界
ただ、聴覚で捉えた音を文字化するのには自ずと限界がありますから、加減が必要になります。
たとえば、犬の鳴き声にもいろいろあり、大型犬も小型犬も一緒くたにしてすべて「わんわん」ではしまりませんが、かといって、犬の鳴き声を忠実に文字化しようとしても無理があります。
中高生を対象とした小説などではセリフもマンガ化しており、
「むぉ~! いけずぅ~…………」
といったようなセリフも多い。これは表現の方向がまちがっています。
これは描写や比喩にも言えますが、音にはイントネーションもあればアクセントもあり、それらは文章だけで伝えられるものではありませんから、どんな感じかは文章を通じて推測させるほうがいいのです。それは文字表現の最大のメリットでもあります。
桑原は川路の頬に銃身をあてた。ためらわず、撃つ。コンクリート片が散り、跳弾がキャビネットのガラスを突き破った。
「やめろ。やめんかい」
「これはおまえのチャカや。後腐れはない」
また、桑原は撃った。薬やっきょう莢が飛び、トイレのドアが砕ける。
「わ、分かった。撃つな」(黒川博行『疫病神』)
かなり緊迫の場面ですが、意外なほどセリフは淡々と書かれています。シーンが映像として見えるから、セリフはそんなに大げさに書く必要がないと言ってもいいです。
どんな感じでセリフを言ったのか、小さな声なのか、大きな声なのか、どんな感情が込められていたか、どんなニュアンスで言ったかなどは、セリフ自体よりも、むしろ、地の文による説明と描写が鍵になります。
逆に言うと、説明や描写が十分にできていないのに、セリフだけがんばって、
「ぅわぁ、分かったぁぁ。撃つなっ!!」
のように音としてだけで捉えても効果的ではありません。
小説のセリフとして変
すでに書いたように、人物視点では、その人物に知覚できないこと(知らないこと)は書けません。ですので、
摂子は東京にいた。そのとき、大阪に出張していた春彦は「摂子はどうしているかな」と言った。
摂子が視点人物なら、大阪にいる春彦の声は聞こえません。聞こえない音は書くことができません。
摂子は東京にいた。当然、大阪に出張していた春彦が「摂子はどうしているかな」と言ったのは聞こえなかった。
摂子が視点人物であれば、これもいけません。「聞こえなかった」と書いたということは、摂子は「聞こえなかった」という事実を認識しているという意味ですから、知らないことは書けません。
このように小説のセリフは視点と大きく絡みます。それゆえ視点についての知識は不可欠なのです。
※本記事は「公募ガイド2012年7月号」の記事を再掲載したものです。