第45回「小説でもどうぞ」最優秀賞 社会の窓 吉川歩


第45回結果発表
課題
隣人
※応募数393編

吉川歩
仕事帰り、いつものように、おれは隣の客の手元をのぞきこんだ。
夜八時半の満員電車である。吊り革につかまる乗客たちは窮屈そうだが、おれは会社の最寄り駅が始発だから、混み出す前に特権で座ることができる。今日は水曜日。週半ばの疲れに予報外れの雨もあって、車内の空気は気だるく湿気っていた。
電車に乗っている一時間ほどの間、おれには、小さな愉しみがあった。それは隣の客のスマートフォンの画面を覗き見ることだった。乗客たちは驚くほど無防備にメッセージを交わし、SNSを斜め読みし、脂ぎったネットの海を遊泳する。仕事がだるい。きれいな服がほしい。モテたい。おれはそんなむき出しの欲望を観察するのが好きなのだ。
趣味が良くない――いや、はっきり悪いと分かってはいる。だが、ネットで簡単に人とつながることができる現代社会では、だれもが隣人だ。おれはそれをリアルでやっているだけのこと。むしろ、SNSの投稿ならば、だれかに読んでほしいと願っているはずではないか? これは一種の社会見学だ。そんな思いから、おれはこのお下品な習慣を、最近は聞かなくなった「社会の窓」という名前で呼んでいるのだった。
今日、右隣に座ったのは若い男。グレーのスーツに革靴、清潔な短髪。肩掛けバッグはブランド物で顔立ちも悪くない。いかにもデキる優男だし、女にもモテるだろう。おれの上司にもこのタイプがいる。おれが少しでも書類でミスすると、信じられないという顔で見てくる気に食わない奴だ。
男は「かおり」という女性とメッセージをやり取りしていた。
「優星おつかれさま。真由はさっき寝たよ」
「おつかれ 今電車」
「明日の朝のパン買えそう?」
「OK いつもの?」
「うん、米粉の、ありがとう! 気をつけて」
「了解、またあとで」
優星と呼ばれた男の左手で指輪が輝く。家庭も順風満帆のようだ。
がっかりした。うだつの上がらない中年男のハート付き長文メッセージ。結婚式帰りの若い女性が検索するダイエットのやり方。高校生がちらちら気にする向かいの席に座った女性のスカートの短さ――。ストレス社会には、人間の欲望が渦巻いている。社会の窓はそんな人間の裏の顔がのぞけるからこそ面白いのだ。幸せな家庭? そんなものは犬に喰わせろ、である。
優星はアプリを閉じ、ネットショッピングを始めた。興味を失いかけていたが、次第に引き込まれる。妙なのだ。
優星がまず調べたのはアウトドア用のナイフだった。キャンプにでも行くのか。それにしては検索が入念で、具体的な用途に合ったナイフを探そうとしている。折り畳み用ではない、鞘に入った重みのあるナイフだ。
その次は多機能ロープだった。耐荷重が強化された、ナイロン製のもの。パラコードと呼ぶらしい。こんなもの、何に使うんだ?
ここでやめておけばよかったのだ。
優星の検索は続いた。業務用の厚手のビニールシート。スチール製の一斗缶。超強力なガムテープ。柄の太いハンマー。外部の音を遮断する高性能防音シート。
違和感が決定的なものになったのは、バリカンを検索したときだった。この組み合わせはどう考えても、アウトドアやDIYではない。
連想したのは、最近ニュースで話題の連続殺人事件だった。五人の被害者の間に面識はなく、殺害方法は様々。ガムテープで口を塞がれ、刃物や鈍器で体を傷つけられた遺体があった。ビニールシートに包まれ、山奥に捨てられた焼死体も。共通点もあった。被害者は全員髪を剃り上げられ、坊主頭にされていたのである。
九十九パーセント妄想だ。だが、残りの一パーセントの可能性に体が震え出す。おれは根が小心者なのだ。人間の裏の顔と言ってみたが、猟奇的な事件に遭遇するために社会の窓を覗いているわけではなかった。
優星のスマホが震えた。「かおり」からのメッセージだ。
「パンのついでに、ビールも飲みたいな」
「オッケー 一本?」
「二本でもいいよ、任せる!」
安堵の息を吐く。ありふれた若い恋人のやり取りだ。こんな男が連続殺人犯のはずがないではないか。何かの勘違いだ。
最寄り駅が近づいてくる。席を立つ支度をしていると、耳元で小さな声がした。
「バレてないと思ってました?」
おれは反射的に見た――優星のスマホを。優星はスマホをスリープさせると、暗転した画面をおれに向けた。
暗い画面は、鏡になった。そこには優星の顔が映っていた。
「オレに気づいてほしくて見せたんですよ」
鏡越しに目が合った。歪んだ隣人の目が、おれを射止めて、残酷な欲望に輝いたような気がした。
(了)