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第45回「小説でもどうぞ」佳作 腹痛 板野賢太郎

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小説でもどうぞ
第45回結果発表
課 題

隣人

※応募数393編
腹痛 
板野賢太郎

 給食のカレーが異常にうまかった。給食当番が「おかわりありますよー」と声を張った瞬間、誰よりも早く手を挙げ、三杯目に突入した。ちょっと甘めのルウに、乱暴に切られたジャガイモとニンジン、それから鶏肉。
 黄金比で盛られたルウとご飯を平らげ、満足してスプーンを置いたとそのとき、すでにそれは始まっていた。
 最初は、ほんの小さな振動だった。胃のあたりがムズムズして、腸が焦りだす。数分後、体の奥底から津波のようにこみ上げてくる圧力。俺は目を見開き、机に手をついた。冷や汗が滴り落ちる。
 急いで立ち上がり、廊下に出るや否や、内臓が反乱を起こしたかのように主張を始める。足取りは軽やかではない。走ると危ない。でも走らなければ間に合わない。
 トイレの個室は大抵ピンチのときには埋まっているものだが、今日は神が味方をしてくれた。
 ガチャン。勢いよくドアを閉める。
 助かった。トイレの静寂が、まるで聖域のように感じられた。便座に腰を下ろすと同時に、腹の中の圧力が、歓喜の叫びとともに霧散していく。
 軽くなった体で天を仰いだ。午後の授業は美術だけだし、家帰ったら何しようかなあと、口笛を吹いちゃおうかと、浮かれていたその時。
 ん?
 んん?
 あれ?
 なんだ?
 なんだ、この違和感。
 隣の個室から、すすり泣く声がする。
 それだけではない。
 薄いピンクの壁、壁に貼られた”生理用品の使い方”の貼り紙。
 血の気が引く音が、はっきり聞こえた。
 女子トイレに入ってしまった。加えて、隣には泣く女子がいる。今後の人生で二度とないシチュエーションだ。
 目の前が真っ暗になった。
「悔しい」
 隣の女子の声が聞こえた。
 うそだ。これは現実なのか。こんな偶然があっていいのか。
 佐伯さんだ。
 小四で彼女が転校してきてから、今まで七年間ずっと好きだった佐伯さん。
 静かに、できるだけ気配を殺して、俺は身を縮めた。
 でも、佐伯さんの小さな声は、個室の壁を貫通して、はっきり聞こえた。
「なんで。頑張りたいのに」
 部活だろうか。陸上部でリレーメンバー争いしていたって、クラスの女子が言っていたような。
「なんで。成績は着実に上がっているのに」
 佐伯さんの声は震えていた。
 気まずさ、焦り、罪悪感、好奇心、俺の胸には様々な感情がこだましていた。
 泣いている佐伯さんはほっとけない。でも俺は女子トイレに不法侵入した身分だ。どうする。どうする。どうする。 
 最終的にオレは正義をとった。女子トイレにいることだって、説明すればわかってもらえるはず。
 小さな声で、変に力まず、できるだけ自然に声帯を使い、「大丈夫?」と隣室に話しかける。
 一瞬、すすり泣きが止まった。
「えっ、誰?」
 俺は、腹をくくった。最初の一歩が最大の難関で、あとは流れに身を任せればなんとかなると、短い人生で学んでいた。
「高橋です。理科が同じクラスの」
 数秒の沈黙のあと、隣から、戸惑った声が返ってきた。
「高橋くん? なんでここに?」
「ご、ごめん。間違えて。腹痛で急いでて」
 信じてくれるだろうか。勢いに身を任せてしまったが、今になって不安になる。最近女子トイレを盗撮した教師が懲戒免職を喰らったばかりだ。
「そっか。びっくりした」
 佐伯さんは美人な上に、素直で柔軟な心の持ち主のようだ。いや、気が動転して冷静な判断力を失っているだけかも。
「驚かせちゃってごめん。話しかけるのも迷ったんだけど、つい」
「ううん。誰かに話しかけてもらえて、ちょっと救われたかも」
 くすぐったいような、風に吹かれるたんぽぽみたいな柔らかい声。壁が立ちはだかり、顔は見えていないのに、心拍数が上がる。ASMRや声優にハマる人の気持ちがさっぱり分からなかった自分だが、今なら少しわかる。
「佐伯さん、頑張ってたの、俺、知ってる」
「……」
「図書室で陸上の本借りてたよね。毎日遅くまで練習してたし。俺、すごいなって思ってた」
 続く沈黙、黙ったままの隣人。俺変なこと言っちゃったかな。図書室で借りた本のことまで知ってるのは、さすがに変かな。
 やがて、ぽつりと佐伯さんが言った。
「ありがとう。高橋くん、優しいね」
「そんなことないよ」
「ううん。すごく、嬉しかった」
 佐伯さんが個室を出る音を聞き、オレも出る。
 佐伯さんの目は少し赤かったけど、笑っていた。
「じゃ、見なかったことにしてあげる」
「え?」
「高橋くんが女子トイレにいたこと。誰にも言わないよ」
 佐伯さんは、悪戯っぽくウインクした。
 俺はほっと胸を撫でおろした。
「ありがとう」
「ただし」
 佐伯さんは綺麗な手のひらを前に突き出す。
「えっ?」
「一か月に二万。高校卒業まで。毎月ね。じゃないとバラすから」
 ん?
「さ、佐伯さん?」
 背筋が冷えた。血の気が引くのは今日二度目だ。
 すでに佐伯さんの顔からは、ひまわりのような笑顔は消えていた。
「私、親からは卒業したら働けって言われてるんだ。大学の学費払えないから。でも私は大学行きたい」
 佐伯さんはスマホで俺を連写し、手を振りながら女子トイレを出ていった。
(了)