第45回「小説でもどうぞ」佳作 赤い星の八つ横 昂機


第45回結果発表
課 題
隣人
※応募数393編

昂機
すみません、隣に越してきたものですが。私は頭の中で何度もなぞった言葉を口にする。
「引っ越しの挨拶に来ました。良ければこれ、どうぞ」
タオルの入ったビニール袋を差し出す。扉から半身出した相手は「ご適切にどうも」と微笑みながら抑揚のない声を出した。声は高すぎず低すぎず、細身で男か女か分からない。ただあからさまに怖そうな人ではなくてほっとする。
「ちょうど頭に被せるものが欲しかったんです。ここは粒が多いですから」
お隣さんは受け取ったタオルを頭に巻き始める。少し変わった人なのかもしれない。柔和な顔をしているものの、声はやはり一定のトーンで温かみがなかった。
「ご無礼ながら、学生さんですか?」お隣さんは言う。
「大学院生です。院に進むために引っ越してきまして」
「そうですか、自分は宇宙人です。どうぞよろしく」
頭にタオルでソフトクリームのようなものをこしらえて、お隣さんは握手を求めてきた。
どうやら自称宇宙人のお隣さんは近所でも有名らしい。アパートの管理人さんが難しそうな顔でそうこぼしていた。「匂いで同胞に信号を伝えます」と駐車場で鍋を炊いたり、「悪い粒を感じます」と共用のゴミ捨て場の周囲を一日中うろついたり。「話し方も不気味でしょう。感情がこもってないというか」と管理人さんは溜め息をついていた。嘆きたいのは私もだ。何が宇宙人なのか。こんな変人がいると知っていたら、このアパートを選んでいなかっただろう。私はできるだけお隣さんを避けて過ごすようにしていた。
引っ越してから二ヶ月ほど経った頃だ。私は理想と現実のギャップに打ちのめされ始めていた。大学院に進めば望んだ研究がのびのびとできると思っていたのに、そう簡単にはいかないものだ。教授との折り合いも悪く、ストレスが私の心を蝕んでいった。
そんなときはバイクをかっ飛ばすに限る。大学のころお金を貯めて買った大型バイクで山道をひたすら走った。体を切る風と心地よいエンジンの振動、後ろに高速で流れていく景色はモヤモヤを吹き飛ばすのにぴったりだ。なのに。
「どうしてこうなるの?」
私は夜の山道で座り込んでいた。バイクが突然動かなくなったのだ。原因不明で手の施しようがなく、電波が届かないからロードサービスにも頼れない。他に通り掛かる車はおらず、電波を求めて徒歩で山道を降りるしかなかった。どうしてこんな目に遭うんだろう。大学院も、大型バイクも、私には分不相応なものなのだろうか。
「隣人さん、おはようございます」
「へ?」つい声が出た。夜道の向こうから、お隣さんが呑気に手を振ってやって来たのだ。
「な、なんでここに」
「ここはいい粒が飛んでいますから。隣人さんはなぜ?」
「バイクが壊れてしまって……」
なるほどです、とお隣さんはバイクのそばに立つ。
「多分自分なら動かせます」
そんな馬鹿な。しかしお隣さんがキーを回すと、先ほどまで反抗期の中学生のように動かなかったエンジンが、突然唸り出した。そんな、馬鹿な。
「どうやったんですか? 手品? 魔法?」
「宇宙の力です。さあ、一緒に乗って帰りましょう」
「い、一緒に?」
「今のこのバイクは、自分しか動かせません」
「でもお隣さん、ヘルメットないじゃないですか」
「これがあります」
手にあるのは私が贈ったタオルだった。あの日と同じく頭にソフトクリームのように巻くと、お隣さんはあまりに自然な動作でバイクにまたがる。なんなの、これ。肩の力が抜けた。免許あるんですか、運転できるんですか、聞きたいことは山のようにあったが、私はついお隣さんの後ろに座ってしまった。
「行きますよ、しっかりつかまえてください」
お隣さんがアクセルを回すと、ぽんぽんぽん、とエンジンから不思議な音がする。唐突な浮遊感。気がつけば、バイクは私たちを乗せたまま夜空を飛んでいた。
「お、お隣さん、これ、これ……!」
「宇宙の力です」
本当に? 山道が、街の明かりが小さくなっていく。この人もしかして、本当に宇宙人だったの?
「あの星が自分の故郷です」
混乱する私をよそに、お隣さんは朗らかに空を指さした。
「ど、どれですか。星が多すぎて見えませんよ」「あれです、あれ」「あのちょっと赤いの?」「その八つ横」「全然わかんない」
いつの間にか私は夜空の旅を楽しんでいた。ふと、心の奥に罪悪感が芽生える。
「私、お隣さんのこと避けてたのに……どうして助けてくれるんですか」
お隣さんは前を見つめたまま、静かに言う。
「タオル、嬉しかったのです。ちょうど被るものが欲しかったので」
その声は、いつもの平坦なものではないように思えた。私の耳がお隣さんの音に慣れたのだろうか。
「隣人さんは大丈夫です、なんとかやっていけます。あなたからはいい粒を感じますから」
満天の星々の中、お隣さんは温かくそう言ってくれた。
気づいたときはベッドの上だった。いつもの私の部屋だ。飛び起きてからすぐ、お隣さんの部屋へ向かう。インターフォンを鳴らしても誰も出てこなかった。
「そこはずっと空き部屋でしたよ」
たまたま通りかかった管理人さんの言葉に、私はしばし呆気に取られた。お隣さんはその日を境に消えてしまった。
それからというもの、私は毎晩空を見上げる。結局、お隣さんの故郷はどこかわからなかったけれど、赤い星の八つ横、その方面に向かって手を振る。こちらなんとかやっていますよ。なんとかね。
(了)