第45回「小説でもどうぞ」佳作 おせんべい 河音直歩


第45回結果発表
課 題
隣人
※応募数393編

河音直歩
おせんべいを受け取ったあとも母親はまだその人と玄関で話を続けているので、退屈になった香菜は二人の顔をちらちら見上げながら廊下の壁に寄りかかった。その人は白い髪をお団子にまとめ、まだ夏は終わっていないのに、灰色の襟巻きと茶色のコートを羽織っていた。
母親はすっかり上機嫌だった。
「ほんとうに偶然ですね」
おばあさんもお月さまのような丸い顔をほころばせた。
「ええ、ご縁ですね。同じ、高橋の苗字だなんて。どうか仲良くしてやってください」
そして、よろしくお願いします、と自分の方へも深々と頭を下げてきたので、香菜もあわてておじぎを返した。
ほんとうは、なあんだ、とがっかりしていた。けれど小学四年生にもなれば、そんなこと、口にしない。ちょうど読んでいるまんがが、アパートの隣に越してきた男の子と恋愛関係になる物語なのだけれど、そんなの、現実的にはほとんどありえない。とはいえ、ずっと空き部屋だった七〇三号室に人が入ると聞いて、ほんの少し期待していた。はじめてのお隣さんが同じ年頃の子かもしれなくて、場合によっては仲良くなったり、万が一にも、どきどきしたりすることもあるかもしれないと。
おばあちゃんは顔に皺がたくさんあって、ゆっくり歩く。一人暮らしだという。独身なのかしらねと母親が言うので、すこし興味がわく。おばあちゃんというものは、みんな結婚しているんだと思っていた。重そうな風呂敷を提げて一緒にエレベーターに乗るときも、近所のお寺の桜を見上げているときも、ひとり。公園のベンチに座って目の前の花壇になにかぼそぼそ話しかけているときも、ひとりだった。ひとりで出かけるのは危ないとしつけられていた香菜にしてみれば、おばあちゃんの姿は未知の、ぴんと強いものにみえた。
「かけっこは好き?」
おばあちゃんは香菜に挨拶をすると、こんなふうに訊ねてきた。食べ物、色、髪型(香菜は長い髪をカラフルなゴムで束ねてもらうのが自慢だった)、季節、お花、好きなものはなにか、香菜はぽつぽつ答えていく。
「そうなの。とってもすてきね」
そんなふうにふっくら笑われるとすこし気分が良くて、香菜も照れ笑いになる。
おばあちゃんの独り言の多さに、母親が「ぼけてるのよ」と言うときもあった。香菜はうそだよと怒るけれど、子どもにはわからない、と相手にされなかった。
雪の降る元旦に、家の呼び鈴が鳴った。扉をあけると、灰色の襟巻きをしたおばあちゃんがしゃきっと背筋を伸ばして立っている。
「明けましておめでとうございます」
赤いポチ袋。香菜はびっくりした。一万円札が一枚、入っている。大金だ。
「もらえないです」
「まあまあ、おめでたいお正月ですから、どうか受け取ってくださいな」
柔らかくすべすべの手が、香菜の手を押し戻した。
話をきいた両親は確信を深めて、「ぼけてるんだろうな。おふくろも頭がだめになって施設に入る前、知らない子どもにお金を配ってたんだ」「たまに若い人が訪ねて来ているみたいだから、返しておきましょう」ポチ袋はどこかにしまわれてしまった。また、何かもらうのも迷惑だからおばあちゃんとおしゃべりするのはやめなさいと注意されて、「そんなの勝手だよ」と香菜は言い返した。
それにしてもぼけるというのは、自分でなったことがないからよくわからない。魂が抜けて体が勝手に動く感じなのかなと思う。怖いことだ。本当におばあちゃんがそうなっていたらと思うと、心がねじれるような、痛い感じがする。でもそうじゃない。香菜が赤色を好きだと答えたのを覚えていて、ポチ袋の色も赤だったのだ。それでも――一万円ものお金を隣の部屋の子どもにあげるというのは、珍しいし、ちょっと変だと思う。自分だって、ものをもらったのに、うれしいよりも、どうしよう、という気持ちが強くて、これってどう考えたらいいのだろう。親の言いつけなんてどうでもいい。でも、それでも、それであっても、明日からおばあちゃんとどういう顔で会おう。どんなふうに話せばいい。香菜は、わからなかった。
それからはおばあちゃんを見かけても、挨拶だけして、話しかけられる前に、ぱっとその場を離れるようになった。そこに残されたおばあちゃんが、それでもにこにこ自分を見つめているのを感じながら。会わないで済んだ日は、玄関の扉を閉めながら、ラッキー、とほっと息をついた。
ひとりの女性が訪ねてきたのは春先のことだ。おばあちゃんによく似た丸い頬の、きれいな人だった。
「母は施設に入りましたので、代わりにご挨拶に参りました。ほんとうに仲良くしていただいてうれしかったと。みなさんにくれぐれも感謝を伝えてほしいと言っていました」
もらったおせんべいを香菜は一枚、自分の部屋に持っていって、袋のまま割った。
灰色の襟巻きとお寺の桜、公園のキキョウ以外に、おばあちゃんの好きなものはなんだったのだろう。ありがとうおばあちゃん、とどうして言えなかったのだろう。こがね色のうすいおせんべいは一度に砕けた。口に入れて、ざりざりと噛んだ。
どうしてひとりきりで住んでいたのか、大金をくれたのか、聞けばよかった。もし私が聞かれたこと全部をおばあちゃんに聞いていれば、そうでなくても、私が知りたいことをなんでも正直に聞いていれば、友だちになれたのかもしれない。友だちになってもよかったんだ。友だちになっても。ざりざり。ざりざり。口の中にこだまする音を、香菜は聞いていた。
(了)