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第45回「小説でもどうぞ」選外佳作 顔も知らない 遠海ひかる

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第45回結果発表
課 題

隣人

※応募数393編
選外佳作 

顔も知らない 
遠海ひかる

 月末の金曜日、午後十時過ぎ。予期していないクレームの処理や怒涛の電話対応をなんとか乗り切り、疲れてボロ雑巾のようになった身体を引きずるようにしてアパートの外階段を昇る。右肩に鞄の取っ手が食い込んで痛い。重さに抗うために身体が左に倒れそうになるのを、左手にコンビニのビニール袋を提げることでバランスを取る。中身はフィルムを剥がすだけで食べられる総菜、つまみ、有名なパティシエとコラボしたというスイーツがそれぞれ何点か、それから三五〇ミリリットルのビールの缶が二本。冷蔵庫には一本しか残っていないはずなので、追加で買ってきたものだ。一か月前に恋人と別れた私には、身を粉にして一週間働いたことへのご褒美をくれる人も、蓄積された疲労を吹き飛ばすようなイベントも何もない。恋人とのデートなんてもってのほかだ。自分を褒めて慰めてくれるのは自分しかいないのだから、金曜日にこのくらいの贅沢をしても許されるはずである。
 重い足取りで部屋の鍵を開け、ワンルームの部屋に入る。電気を点ければ洗濯かごから溢れた衣類が出迎えてくれる。溜まった洗濯物は一週間分まではいかないはずだ。明日やるから、多分、と心の中で呟きながら靴を脱ぎ捨てた私は、鞄もコンビニ袋も放り出し、ソファにダイブした。重力から解放された脚、特にふくらはぎのあたりから心臓に向かって血液が流れてくるのがわかる。顔を埋めたクッションは少し埃っぽくて、そのまま息を吸い込むとかすかに鼻の奥がかゆくなった。これも明日まとめて洗ってしまおう。余力があれば。どんどん重くなる瞼と遠のく意識の中で、明日やるべきタスクを数えていく。溜まった衣類や放置して久しいクッションカバーの洗濯、食料と日用品の買い出し、一週間分の総菜の作り置き、その他諸々。貴重な休日が潰れるのは想像に難くない。休む間もなくまた仕事漬けの日々に戻ることになるだろう。とはいえ、休日に出かける予定も、時間とお金を費やすような趣味もないので、なんの問題もない。なんの問題もないのがよりいっそう腹立たしく、不甲斐なく、惨めである。
 ピコン、とポケットに入れたままのスマホが通知音を鳴らす。この音で思い浮かぶのは、故郷の母からの結婚はまだかと探りを入れるメッセージか、転職紹介アプリの通知くらいのものだ。どちらであっても確認するまでもないが、一応ポケットからスマホを取り出して画面を視認する。『転職セミナーのお知らせ』と、ロック画面に表示されている。案の定、転職アプリの通知だった。メッセージの確認に費やした労力を返せ。いつか洗濯した衣類が散乱するラグの上に、乱暴にスマホを投げ捨てる。大して使ってもいないので、バッテリーもそれほど消費していない。わざわざ充電する必要もない。
 あぁ、疲れた。
 もうこのまま目を閉じて寝てしまおうかと、仰向けに体勢を変える。見慣れた天井が目に入るが、なんの感慨も沸いてこない。
 重力に逆らえずに落ちてくる瞼。ソファと同化するように沈んでいく手足。思考には靄がかかり始め、音が遠のいていく。
 途切れかけた意識の彼方で、カン、カン、カンと音が聞こえた。続けて、コツ、コツという硬い音も。音はどんどん近くなり、そして止まった。やや暫く時間が空き、ガチャリと響いたのは部屋の鍵を開ける音。再びコツ、コツ、と聞こえた音が、開いたドアの隙間から吸い込まれていく様子が、映像として閉じたままの瞼の裏に浮かんだ。静かだった隣の部屋から、生活の音が漏れ聞こえてくる。私の世界までもが俄かに色づいていく。
 名前も知らない、顔を見たこともない隣の部屋の人。おそらく女性。私と同じで毎日帰りが遅く、誰かを部屋に呼ぶこともない。遅い時間にカンカン、コツコツと踏み鳴らすヒールの音はどことなく寂しい。なんて、会ったことも話したこともないただの隣人に、そんなことを思われる筋合いはないのだろうけれど。
 それでも彼女は、今の私にとって一番の拠り所に違いなかった。勝手に感じてしまう親近感とシンパシー。肩肘張った、それでいて寂し気な響きを孕むヒールの音、遅い帰り、恋人の影も見えない生活音など、部屋と部屋を隔てる壁の間から零れ落ちる隣人という存在のかけらが、それに気付いた頃から勝手に彼女のイメージを描き、具現化していた。私はその、自分が作り上げた彼女の偶像に縋り、惨めなのは自分だけではないと思い込もうとしていたのだ。彼女自身が惨めかどうかなど、分かるはずもないのに。
 壁の向こうから、微かに彼女の足音やドアの開閉音などが聞こえてくる。今日もお互い頑張ったね、と慰め合いたいような、やはりこのまま顔も知らないまま日々を重ねていきたいような、どっちつかずの感情に溺れそうになる。
 顔も知らない、話したこともない、それでも、いつも私の一番近くで生活しているあなたが、穏やかな週末を迎えられますように。途切れる間際の意識の片隅で、多分そんなことを思った。
 ソファの横で、コンビニのビニール袋がかさりと音をたてた。
(了)