第45回「小説でもどうぞ」選外佳作 薄い壁 富永真博


第45回結果発表
課 題
隣人
※応募数393編
選外佳作
薄い壁 富永真博
薄い壁 富永真博
青木は、出張で十日程ウィークリーマンションに滞在することになった。
出張自体は多いのだが、今回は初めて訪れる地域であったため、インターネットで宿を探していたところ、ちょうどキャンペーンか何かで安くなっているところが見つかり、あまり何も考えずにそこを予約した。
到着すると、マンションのロビーで子連れの家族や老夫婦とすれ違った。どうやら普通の分譲型マンションの一部の部屋をウィークリー用に貸し出しているようだった。しかし、いくら他の部屋が賑やかであろうが、部屋では一人で退屈を持て余すことに変わりはない。
最初の夜、移動疲れもありソファでうとうとしていると、隣の部屋からパーティーでもやっているかのような賑やかな声が聞こえた。グラスの音、笑い声、ノリのいい音楽。
(世間は週末で休みだし、友達でも呼んでいるのだろう)
二日目は、落ち着いたジャズの音色と男女の会話が聞こえてきた。
「またすぐ会えるの?」「もちろんだよ」
(それにしてもずいぶん壁が薄いな、全く……)
三日目、突然激しい口論が聞こえた。
「どこにいたのよ!」「俺を疑っているのかよ!」
怒鳴り声と、荒くドアを閉める音。
(今度は痴話喧嘩か)
四日目は、子どもの泣き声と母親の叱る声。
(子供もいたのか。家族構成がいまいちわからない)
五日目は、夜中に年配の男たちが将棋を指しているような声が聞こえた。
「ほら、お前さんの番だ。そういや、娘さんは元気にやっているかい? まいこちゃん」「最近は全く音沙汰ないよ。こっちは孫の顔見たいのになあ」
六日目、誰かが大声で芝居のセリフを叫んでいた。台詞がたどたどしい。
七日目は静かだったが、微かにギターの弾き語りが聞こえた。もの悲しい歌声だった。
(それにしても、ずいぶん多様な生活ぶりだな)
違和感は日に日に募っていた。だが青木は、夜になると自然と耳を澄ませていた。誰かの声が壁越しに聞こえるだけで、不思議と落ち着くのだった。
そして八日目の深夜。突然、異様な物音が響いた。誰かの悲鳴。家具が倒れる音。ガラスの割れる音。
「やめろ! 頼む、やめてくれ!」
鈍い衝撃音。何かが崩れ落ちた。そして、静寂。やがて、バタバタと動きまわっているような足音が響いてきた。そして、壁越しにひそひそと押し殺した声が聞こえた。
「見つからないうちに……」
「処理は済んだ。今夜中に終わらせる」
重い沈黙。何かを引きずるような音。シャベルで土を掘るような金属音。
(……まさか、何か事件か……?)
青木は凍りついた。通報すべきか迷ったが、体が動かなかった。
九日目。夜。壁の向こうから、泣き笑いの声。
「助かったんだ……あいつ意識が戻ったんだって」
「奇跡だよ、もうダメだと思ってたのに」
グラスがぶつかり、拍手が湧く。
「乾杯だ! 生きて帰ってきたあいつに!」
何が起きたのかは全く分からない。だが、青木は胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。まるで自分が救われたかのように。
最終日、荷造りを終えると、このウィークリーマンションの管理担当者だと名乗る男が現れた。
「このたびはご滞在ありがとうございました。住み心地はいかがでしたか?」
「部屋はきれいだし、必要な家具や家電は最新のものが揃っているし、良かったよ。ただ、こんなきれいなマンションなのに壁が薄く隣の音が筒抜けなのに多少驚いたかな」
「はい。それがこの部屋の特徴でございます」
そう言って、男は、部屋の白い壁を指差した。
「実はこの部屋、“隣人音響再生システム”の体験モデルルームとなっております」
「……音響?」
「はい。隣室との間の壁全体がスピーカーと一体になっており、まるで隣の部屋に誰かがいるかのような生活音や振動を人工知能が生成し、再生されるシステムとなっております」
「えっ……、それはつまり、あの事件も、あの奇跡も、本当の出来事ではないということか?」
「はい。再生内容は、お客様から事前にお伺いした情報やアンケート回答内容、また、お客様の体調やストレス度、生活パターンをこの部屋に設置しているセンサーで取得し、人工知能がお客様にとって
「なんと………」
青木は、壁にそっと手を当てた。
冷たく、何もない。だが、たしかに、確実にそこに“誰か”がいた気がした。
「最近では、防音性能がこれ以上ないほどのレベルまで上がっており、隣人音が聞こえるなんてことはほとんどなく、隣にどんな人が住んでいるのかさえ何年もずっと知らないままということも珍しくなくなってきました。一方、“孤独”が原因と考えられる精神疾患が増え、社会問題にまで発展している状況です。当社では、“誰かが近くにいる感覚”こそが、現代人にとって必要なものであると考え、このシステムを開発いたしました」
青木は、ただ黙って壁を見つめた。
(とうとう人間の温かみや気配さえも人工的に作り出す世の中になったか。皮肉なシステムだな)
しかし、作り物だとわかった今でも、無意識に隣人の存在に耳を澄ませてしまう自分に気づいて青木は苦笑した。
(了)