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【初心者のためのエッセイ講座】実体験ベースが大事! 自慢・グチ・うんちく・自分語りも、工夫をすれば“読ませる文章”になる

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あなたのエッセイはどのレベルにあるか

参考になるのは、名文より悪文

作品のレベルをA〜Eの5段階に分けると、A、Bは採用の有力候補作で、Cはあまり特徴のない平凡な作品。D、Eは不採用まっしぐらの作品で、ここから採用レベルまでもっていくのには、ワンランクもツーランクも上げていかなければならない。

自作のレベルを図るチェックポイントは3つある。
● 表現、言いまわしなど、個々の一文はしっかり書けているか。
● 文と文の関係と分量、段落と段落の関係と分量は適切か。
● 全体を通して言いたいことは、読後に浮かび上がってくるか。

こうした問題点は、書き損なった文章を読むとよくわかる。しかし、段落のバランスや論理的展開については、書いている本人には気づきにくい。

そこで下記にチェック方法を示した。段落のバランスについては、実際に行数を出せばわかる。また、論理的展開については、段落の趣旨を要約してみて、文章の流れや関係をチェックするといい。

文章の5段階の完成度

判定A 完成度100 修正なし
誰が読んでも修正すべき点はほとんどなし。文章表現も題材も主題も構成もパーフェクトな原稿。

判定B 完成度80 部分修正
適切でない表現や言いまわし、文脈のよじれなど部分的には修正したい箇所があるが、おおむね合格。

判定C 完成度60 すべて普通
可もなく不可もなくという原稿。欠点もないが、いいところもない。紙一重でAにもEにもなる。

判定D 完成度40 構成に難あり
書き出しや結論が長いなどバランスに問題があったり、論理的でないなど展開に問題がある原稿。

判定E 完成度20 全部修正
破たんしている、話題過多でとっちらかっている、テーマが浮かばないなど、書き直すしかない原稿。

実際に短文をチェックしてみた

猫族に関する誤解
ハイエナが死肉を漁ることから「ハイエナのような」と言われるが、普通に狩りもするし、残虐な動物だと思われているのは誤解だ。齧歯類のレミングが集団自殺をすると言われているのもやはり誤解で、あれは狂騒とも言うべきパニック状態だ。(①)

豹はアジア、アフリカに生息する大型猫で、英語ではレパードと言う。しばしばジャガーと混同されるが、こちらはアメリカ大陸に棲む別種だ。パンサーは豹やピューマも意味するが、これは西洋で大型猫を指す総称で、パンサーという種はない。(②)

大型猫と小型猫の決定的な違いは吠えるかどうか。ただ、アジアで独自に進化をした雲豹と雪豹は大型猫だが、咆哮はしない。(③)

①要約
ハイエナは残虐な動物ではなく、レミングが集団自殺するというのも誤解だ。

②要約
豹はレパードと言い、ジャガーとは別種。また、パンサーは大型猫を指す総称。

③要約
大型猫と小型猫の違い 要約は吠えるかどうか。ただし、雲豹と雪豹は大型だが咆哮しない。

要約してみると関係がわかる
上記の文章を要約してみると、第1段落で猫族以外のことにまで言及していることがわかり、この部分は不要。第3段落はこの分量でいいが、前の2つの段落との関係を見ると、前段を総括した結論にはなっていない。

小説作法で書くエッセイ術

小説は、過去に起きたと設定したことが、今起きているように錯覚させる技術で書かれる。これをエッセイに応用してみよう。

エッセイの著者による3つの系統

世の中にあるエッセイを3つに分けると、学者系、タレント系、小説家系がある。

学者系は、心理学や動物学など学術の分野での専門の先生が、専門分野について真面目かつ面白くおかしく書いたエッセイ。ベースとして専門知識があるので信憑性があり、至るところに新しい発見がある。

タレント系は、タレントのキャラクターで読ませるエッセイ。毒舌キャラ、料理芸人といった個性や特技を生かし、おしゃべりを聞いているかのように楽しませる。いわゆるタレント本。

小説家系は、小説家がその技術を使って、身辺雑記などを書いたもの。他のエッセイと変わるところはないが、小説家がエッセイを書くと、習い性で、つい小説の技術を使ってしまう。これは、技術的にはエッセイという名の小説ともいうべきものだ。

アマチュアがエッセイを書きたくなるとき

エッセイを書きたくなるときはどんなときか。

まずは、「自慢したい」とき。昔の武勇伝とか、孫自慢とか。2つめは、「グチを言いたい」とき。ああすればよかった、今の若い人は……と言いたくなる。3つめは、「うんちくを言いたい」とき。頭がいい、博識だと思われたくて、ひけらかしたくなる。最後は、「自分について書きたい」とき。自分がこの世に生きた記録を残したいときにそう思う。

自慢もグチもうんちくも自分のことも書いていい。問題は、私たちは一介の素人であって、著名人ではないということ。自慢やグチなどは著名人だから面白く読めるというところがあるが、素人ではそうはいかない。

アマチュアがエッセイを書く場合は、自慢にしろグチにしろ、実体験を絡めて書くこと。何を書くにしても、実体験を踏まえたほうが意見の背景がわかって、趣旨を理解しやすい。

また、実体験を書くと、読み手を感情移入させやすいというメリットもある。話に感情移入し、自分のことのように思うと、他人の自慢話やグチも、自分の思いを代弁しているように感じる。

アマチュアのエッセイは、実体験をベースに書こう。

エッセイを書く4大動機

自慢したい

失敗するパターン
自慢話をするほうは気持ちいいが、聞かされるほうは不愉快。エッセイも同じで、読み手は羨ましさとねたみ、ひそみしか感じない。

対策
自慢であっても「そうそう」と共感できたり、「この作者は私だ」と思えると、作者の自慢話が自分の自慢話のように思えて痛快。

グチを言いたい

失敗するパターン
世の中は不公平だ、人生はままならないなど、不平不満、グチを放って作者は気持ちいいが、読むほうはただただ不愉快。

対策
グチを言いたくなるような出来事を、自虐ネタと言われる失敗談として面白く書いたり、不幸な人生も明るく笑い飛ばせると○。

うんちくを言いたい

失敗するパターン
知識のひけらかし、頭がいいふり、本人が自尊心を満たしたいだけだと、読み手にはつまらない。無知と言われたようで気分が悪い。

対策
うんちくのためのうんちくではなく、実体験なり意見なりがあり、それに付随してさりげなく出す。エッセイに盛り込む必然性が必要。

自分について書きたい

失敗するパターン
普通の人の普通の人生を書くと、他人の鑑賞には堪えない。普通でない話でも、単なる立身出世譚、人生哲学、教訓話はウケない。

対策
やはり普遍性が必要。かつ、人が言わないことを告白していたり、その人しか書けないことが書かれていると史料的にも価値が高い。

作者の立ち位置で臨場感は全然違ってくる!

作者が出来事から遠いところにいる

例文1
周りを山々に囲まれた山形から、日本海の前浜という小さな海辺の寒村にもらわれていったのは、私がまだもの心つかない三歳の頃、昭和二十八年のことだった。

実母の妹に子がないことから、私の兄がもらわれることになったが、なぜか結果的に私が選ばれた。もちろん、私はそのことを覚えていない。

前浜にもらわれていくと、まだ幼いうちからもらいっ子というあだ名をつけられ、家の外からよく村の子にはやし立てられた。祖父がいるときは箒で追い払ってくれたが、祖父がいないと、母は土間まで出て大きく息を吐き、しかし、結局は何もできず、ただ途方に暮れるばかりだった。

作者が出来事の現場にいる

例文2
昭和二十八年秋のことだった。縁側に立って外を見ていると、窓の外で村の子が数人、何かしきりに叫んでいるのが聞こえた。

「もらいっこ、もらいっこ」

彼らはそうはやし立てていた。

母はおろおろするばかりで何もできなかった。と、突然、祖父は真っ赤な顔をして三和土に駆け降りると、玄関先にあった箒を持って子どもたちに向かっていった。

「こら、そんなこと言ったら承知せんぞ」

子どもたちは蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。

あとから聞いた話だが、私は叔母夫婦に子どもがなかったことから、三歳のとき、山形の実家から養女に出されたのだった。

小説を書く技術を使い、エッセイを書く

実体験を書いても、視点(情景を映しているカメラの位置)によっては効果が出ない。

上記の文章は、例文1の作品も例文2の作品も同じ出来事を題材にしているが、印象はかなり違う。

例文1の文章の視点は、原稿を書いている今現在にある。今から見て、昔こんなことがあったと書いている。客観的、俯瞰的に書けるメリットがあるが、作者が出来事から遠い位置にいるので、説明的になる傾向がある。

例文2の文章の視点は、出来事が起きた現場にある。作者は時空を超えて過去に戻り、その過去を現在として、見てきたように語っている。これは小説の書き方で、読者は今まさに紙の上で出来事が起きているように錯覚する。

上記の例文1は、エッセイの典型。原稿を書いている今現在の視点で、出来事を説明的に書いている。

実体験を書く場合、基本的には例文2の文章のように書くと場面が立つが、それだけでなく、あるときは例文1の文章のように俯瞰的なワイドな視点で書き、かと思ったら、例文2の文章のように場面に焦点をあてたクローズアップの視点で出来事を再現する。

原稿を書いている今現在と、出来事が起きた過去に「私」がいて、必要に応じて2人の「私」を使い分けて書く。これが小説作法で書くエッセイだ。

エッセイも小説の1つという仮説

エッセイと小説ではどちらが古いかと言えばエッセイだが、近代になって西洋で生まれた小説はたとえて言えば巨大な風呂敷のようなもので、なんでも取り込んでしまう。あるべき形式はないので、誰かが評論や詩を書いて、「これが小説です」と言っても否定はできない。

となると、エッセイも事実縛りのひとつの小説ではないか。エッセイのようなふりをしているが、小説家が書くエッセイは私小説ともまた違う小説なのではないか。つまり、実話ベースながら、そこには作為がけっこうあるということだ。

※本記事は2018年9月号に掲載した記事を再掲載したものです。