高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 退化/菅保夫
菅保夫
「あれは、何の音ですか」丸刈りのゴマ塩頭をかきながら彼がたずねると、ポロンという電子音のあとにロボットは返答する。
「ヒグラシというとミの一種の鳴き声です。主に日の出前と日没時に鳴きます」ロボツトのモニターにはヒグラシの映像と説明文が表示された。このロボットの主な仕事は、病院内の夜間巡回だ。五台のロボットが、巨大な病院内を等間隔で見回るのである。
彼の左手には、名前がプリントされている。それが自分の名前だと聞いているが、彼自身はピンとこない。その名前を声に出して何度も読み、紙に何回も書いてみたが、自分の名前だという実感は持てない。名前だけではなく、鏡に映る自分の顔も、ひどく遺知感を覚えるのだ。彼は記憶を完全に失っている。
ロボットは彼に病室へ戻るようにすすめ、巡回を続けた。彼は夜中に目が覚めると、この喫煙室でしばらく過ごすのが日課のようになっている。タバコは吸わないが、炭酸飲料を飲みながらラジオを開き、ゆったりと夜を味わうのだ。病院で意識をとり戻してからのことはよく覚えているのだが、それ以前の記憶は何ひとつ残っていなかった。独身で、両親はすでに故人であり、兄弟はいない。おまけにこの町には引っ越してきたばかりで、職場以外では親しい人もいなかった。
彼が記憶を失ってしまった原園は、新種のウイルスによる感染症である。感染から発症まで三ヶ月ほどかかり、致死率は極めて低い。その存在が明らかになったときには、すでに世界中に広がっていた。ウイルスは蜜異的な変異を繰り返し、発生から五年たった今でもワクチンや治療薬が確立されていない。死に至る病ではないのだが、問題は記憶をうばわれることにあった。発病初期は軽い風邪のようだが、間もなく高熱が出て意識を失う。その後、数日から一週間程度で意識は回復するが、そのときは例外なく全員が記憶と喪失している。さらに恐ろしいのは、失った記憶は二度と戻らないということだ。
病院では意識が回復した患者に名前をたずね、答えることができずにパニツクを起こすという場面が 、毎日のように繰り返入れている。この病の怖さは十二分に人々に伝わっており、誰もが細心の注意をはらって生活している。しかしそんな努力もむなしく、感染者は増え続けている。
彼は本棚に、なぜか並べてある低学年用の算数の問題集を手に取り、一ページだけやってみる。答え合わせをすると、六割ほどは正解していた。彼はこの結果に驚くことはない。頭をかき、半分以上正解だから良しとしようくらいに思う。これも感染者に起こる後遺症のひとつで、個人差はあるものの知能が低下するのである。単純な計算を間違い 、やさしい文章でも意味を理解できず苦しむ。こちらの症状も回復することが、ほとんどない。感染者の九割以上は、仕事ができなくなる。症状が重い者は、一人で服を着ることも、食事を取ることすらもできなくなってしまう。
国民の五分の一がこのウイルスに感染すると、国は国もして成り立たなくなると言われている。実際、すでに三十を超える国が破綻をきたしているそうだ。仮に発電所が故障して送電が止まっても、直せる技術者が次々といなくなっていくのである。電気、水道、ガスと、ライフラインが止まっていく。流通もままならなくなり、物資が不足する。生活ができなくなった人々は他国へと助けを求め、また感染が広がっていく。この発展した文明社会は急送に終焉へと向かっている。そして、人類の滅亡も近いのかも知れない。
ヒグラシが、また穏々かに鳴き始めた。
「先生 、そろそろ部屋に戻りませんか」ロボトたちは情報を共有しており、彼がいつからここにいるのか知っている。彼はラジオから流れてきた歌を、以前聞いたような気がして懸命に思い出そうとしていたが、無理だった。
「はい、戻ります」炭酸飲料を飲み干して席を立った。自分が先生と呼ばれることには慣れてしまった。名前を呼ばれるより、先生のほうが親しみを持ってしまっている。彼は最近まで、この病院に勤める医師であった。そのときの記憶も知識もすでに皆無だが、ロッカーに入っていた自衣に袖を通したときには、何かしっくり似合っているように思えた。
彼は近々、退院予定である。幸運にも日常生活が困難なほどの知能低下は認められなかった。退院後はこの病院で働くことが決まっている。それは雑用的な仕事と、今後開発される新薬の治験者としての採用であったが、彼はそのこともちゃんと線解していた。
(了)