公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

第4回「小説でもどうぞ」選外佳作 記憶の記憶/石原かのこ

タグ
作文・エッセイ
投稿する
小説でもどうぞ
第4回結果発表
課 題

記憶

※応募数292編
選外佳作「記憶の記憶」石原かのこ
 あれ?  と思った。道に立っていた。
 どこかに行く途中。キチンと服を着ている。
 前を向き、歩き出す。ただ、何処へ?
 あれ? つと立ち止まり、もう一度。あれ?
 我にかえった、とも違う。我を見失う、とも違う。
 ただ、あれ?  どうやら記憶を無くしているようであった。いつからなのかもわからないが、なにしろ、前にも後ろにも、何も記憶がない。
 記憶がないのだから、さぞどうしていいやらわからなそうなものだが、さほど不便もないようで、落ち着いている。
 取り乱すでもなく、キチンと服を着て、歩いている。
 いつ記憶をなくしたのかの記憶もないけれど
 読み書きはできるようだ。試しに手当たり次第、目に入る看板を読んでみる。大丈夫。
 それに書けそうだ。だから、たぶん、ちゃんと学校に行っていたに違いないし、わりと難しい漢字も書ける様であるから、ちゃんとした教育を受けていたに違いない。
 が、その記憶がない。なのに、読み書きはできる。
 不思議なものだ。
 記憶がないのに、スキルだけは残るのであろうか。
 学生の頃は 普通に記憶があったのだろうか。
 わからない。
 が、電車にも乗れそうだし、なんなら、車の運転だってできそうである。
 じゃあ、車の免許が取れる年齢になるまでは記憶があったのだろうか。でも覚えていない。
 免許をとる勉強をしたり、教習所に行った記憶も、もちろんない。けれど、道路標識の意味はわかるようだ。
 試しに目の前の車に乗って行くところを想像してみる。
 ドアをあけ、鍵を刺し、エンジンをかける。
 うん。車にのることは、できそうだ。
 経験値。みたいなものは、ある。
 でもその事にまつわるストーリーみたいなものがひとつもないのだから、あれ?である。
 誰が母だかわからないし、どこでどう育ったのかもわからない。
 そもそも、いつ記憶をなくしたのかも、わからない。
 記憶ができないまま生きていたのか、記憶自体をすっぽりとなくしたのか。どちらにせよ、
 私には記憶がないと はたと気が付いたのだ。
 よくドラマなんかで目にした事がある、空やビルがグルグル回って、わあっ此処はどこだ?私は誰なんだ?と主人公が慌てふためくような事もなく。
 ただ、あれ?と思った。
 狼狽やパニックなし。ただ、あれ?
 するべき事ややるべき事、あうべき人や行くべき所。
 何もうかばず。ただ、あれ?
 その、あれ?が、今日なったのか、昨日もあれ?だったのか、いつからあれ?なのか。考えてもわからず。
 それから、だんだんと、あれ?が、なんだっけ?になり、
 とりあえず、外にでたんだし、せっかく出てきたからには、まあ、足の向く方に行ってみる事にして。
 初めてみる街並みを、キョロキョロしながら興味深くみた。が、つと振り返り、今でてきたと思われる建物と、出てきたんじゃないかなというドアの部屋の番号を 何気にもっていた鞄に入っていた手帳に書いておこうと思った。かえるべき場所がないのは困る。手帳には、同じように、建物の名前と部屋番号が何ページにもわたり書きとめてあったから、
 あ、ずいぶん長く、あれ?なんだなと思った。
 一応、部屋の前までいき、ポケットに入っていた鍵を刺し、回してみる。
 カチャリ。開いた。私の部屋に間違いないようだ。
 ひとまず、帰る場所はあるのはわかったから、もう一度鍵をかけて、少し外に出ることにして、いまきた道に戻った。住所も書きとめた。それも何ページにも渡り、書かれていたのであるから、もうずっとこんな風なんだなと思った。でもまだ、自分の記憶がいつからないのかわからなかった。記憶というものは、忘れたくない思い出のようなものかもしれない。そしてまた、思い出と、スキルは、別の次元の話なんだろう。
 ある意味 真っさらというか、しがらみがないというか、そういう、思い出がひとつも無い状態を
 ひとまず、受け入れる事にした。そうする以外思いつかなかった。どこに行くかも決まりがないから、とにかく、ぶらぶらして、私を知ってる人が声をかけてくるのを待ってみたけれど、誰も、やぁ、何々さん!元気?と声をかけてくる事はなかったので、何もわからないままだったけれど、周りの人達もなかなか感じのいい人ばかりだったから、なんとなく会釈なんかして、さっきの、家、と思われる場所に戻った。
 貴方から電話があったのは、まさにそんな日の夕方で。
 でも、あ、間違えました、と切ろうとした貴方と、少し話をしてみたいと思って、あ、切らないでください。
 私はどうやら、記憶を無くしたらしいのです。
 と急いで言った。貴方が小さく息をのんで、
 まぁ。と言って、しばらくの間があって。それから、何かお役に立てますか?と聴いてくれた。
 貴方のまぁ。息をのむ貴方、貴方の まぁ。
 自分が誰かもわからないけれど、息をのむ貴方と、貴方のまぁが、私をあたためた。
 産まれてから初めての記憶をもしも思いおこせるならたぶんきっと こんな感じなのかな。それは母の声の記憶のような。懐かしい。
 記憶のはじまり。記憶の記憶。
(了)