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ビギナーズ小説大賞 佳作「記憶釣り」

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作文・エッセイ
「記憶釣り」
赤座耕太( 岐阜県・39歳)

一人の男が釣り竿を手に、石に腰掛け、釣り糸を沼にたらしている。少しお腹の出た体を上下真っ白の服装で包み、もう若くない顔についた目は、水面のウキをじっと見ている。

その頭上には、光る輪っかが浮かぶ。

男の横には、『あなたの忘れた記憶 釣ります』と書かれた看板が立っている。

音もなくウキが水中に沈んだ。男は合わせて竿を立てる。

「よし! かかった」男が叫んだ。

「釣れましたか?」と、もう一人、男が駆け寄ってきた。しわの寄ったスーツを着た、白髪交じりの痩せたサラリーマンだ。

竿を立てて、男は獲物を引き寄せる。相手も抵抗していたが、次第に疲れてきたのか、岸へ寄せられる。今がチャンスと、男は竿先を高く上げた。

沼の中から、釣り針にかかった、両手ひと抱えの綿菓子のようなものが飛び出した。

「よし。あんたの記憶、釣れたぞ!」

男は叫んだ。

「これが私の記憶?」

サラリーマンは目を細めて、釣り上げられた「記憶」を見る。すると、「記憶」は釣り針から外れ、サラリーマンの頭の中へ飛び込んだ。サラリーマンは立ったまま、目を見開き硬直したが、すぐに目を閉じて、ゆっくり鼻で深呼吸した。そして少し口が笑った。次に、閉じた目から涙がにじみ出た。

釣られた記憶を思い出しているのだ。記憶を釣った男は、それを見て満足そうにうなずいた。

しばらくして、目を開けたサラリーマンは、男に礼を言い、去っていった。来た時よりも少し足取りが軽やかに見えた。

どんな記憶だったのだろう。釣れた記憶の内容は本人しか分からない。記憶を釣った時はいつも気になるが、聞かないのが規則だ。

「今日もいい仕事をした」

沈みかけている夕日を背にして、男は釣り道具を箱に片付け始めた。

五年前に死んだ男は、神の命令で記憶釣りの仕事をしている。記憶釣りとは、「この世」と「あの世」の境にある「記憶の沼」から、生きている人の忘れた記憶を釣り上げる仕事だ。忘れてしまった楽しい記憶を思い出したい時、寝ているうちに魂だけが抜け出し、ここにやって来るらしい。男自身も詳しいことは分からないが、つらい「この世」で生きる人間に対し、神が与えた福利厚生施設のようなものかと思っている。

「すみません。ぼくの記憶、釣ってもらえませんか?」

声が聞こえた。

男は手を止めて声の方を見る。リュックを背負った、小学校高学年くらいの男の子が立っていた。

「子ども……」と男はつぶやいた。子どもがここにくるのは初めてだった。

「何しに来たんだ?」ぶっきらぼうな言葉が出た。胸が苦しくなる。男は子どもが嫌いなようだ。

「ぼくの記憶を釣ってください」

もう一度、男の子は言った。その目はジッと男を見ている。男は目を反らした。

「子どもなんだから、忘れた記憶なんてすぐに思い出せるはずだ。努力しろ。今日の仕事は終わりなんだ」

男は、自分が思っていたより大きな声が出て驚いた。釣り道具を手に持ってその場を離れようとした。

「お願いします!」と、男の子は負けないくらい大きな声で叫んだ。男の足が止まる。

「だめなんです。大切な記憶、どんどん忘れていくんです。忘れちゃいけないのに、でも、どうしようもなくて……」

男が振り返ると、男の子の目から涙があふれていた。

「泣くな。がんばれ。なんとか思い出すんだ」

「無理なんです。どうしても、忘れるばかりで。助けてください」

男の子の涙が止まらない。男は大きなため息をついた。仕方がない。

「わかったよ、釣ってやるよ」男が言った。たまには夜釣りもいいか。

男の子は涙をぬぐい、ニコッと笑って「ありがとうございます」と頭を下げた。

「記憶の餌にするんだから、さっさと思い出の品をだせ」

沼のいる記憶は、自らと結びつく思い出の品に引き寄せられる。男の子はジーンズのポケットを探り、丸めたティッシュを出した。そこには釣り針が包まれていた。銀色が眩しい、鋭い釣り針だ。

「その釣り針が思い出の品なんだな。よし、任せろ」

記憶釣りは、その記憶にまつわる思い出の品を餌にする。さっきのサラリーマンは、野球のグローブを餌にした。餌は針に引っ掛けるが、今回は男の子が持ってきた釣り針を糸に結びつけるだけにした。記憶はその釣り針自体に引き寄せられ、食いつくはずだ。

「待ってな。絶対釣り上げてやるから。おじさんは釣りの天才なんだ。一度も獲物に糸を切られたことがないのが自慢でね」

男は釣りの仕掛けを沼に振り入れた。波紋が静かに広がる。日が沈み、辺りは暗くなっていた。

「ウキが見えん。鈴、つけるか」と、男は道具箱から鈴を取り出し、竿先に括り付けた。

「竿の先に鈴をつけると、記憶が餌に食いつけば、鳴って教えてくれるんだ」言いながら、男は石に腰を下ろした。男の子も隣に並んで座った。

辺りは真っ暗になった。竿の鈴はまだ聞こえない。風もなく、木々の揺れる音もしない。

「釣りは、好きですか?」と、男の子が聞くと、「ああ」とだけ、男は返した。

神から与えられた、記憶釣りの仕事は楽しかった。何もかも忘れ、毎日、記憶を釣ってきた。血の雨が降る日も、灼熱の風が吹く日も。アメリカ大統領の記憶を釣ったり、死神と釣り対決をしたり。男の子に話すことは、たくさんあった。でも言葉が出ない。

またしばらく、静かな時間が流れた。

「わぁ」と、男の子が天を見上げて声を上げた。男も空をみると、たくさんのすい星のような光がゆっくりと移動していた。どれも同じ方向に向かい、流れる天の川のようだ。

「あれはな、死んだばかりの人の魂だ。ここはこの世とあの世の間にあるだろ。だから毎晩、ここを通るのさ」

魂の流れは、辺りを微かに明るくしている。沼の水面や、男の脂ぎった顔、男の子のうるんだ瞳を、闇から浮かび上がらせた。

リン、……、リン。鈴の音が聞こえてきた。

男は釣竿を立てた。

「よし、かかったぞ!」

「記憶」は釣られまいと沼の中で抵抗する。竿がしなり、糸が張る。水面が激しく波立つ。

「おい、こら。抵抗するんじゃない。お前のご主人が待っているぞ」

男は一気に「記憶」を沼から振り上げた。

「よし、釣れたぞ」

この瞬間が、一番達成感を感じる時でもあり、また寂しい時でもある。記憶の内容は本人にしか見えない。男には何も分からない。

でも、今回は違った。

釣った記憶が男の頭へ飛び込んできた。

 

川に反り立つ岩の上に男がいる。

手には釣り竿を持っていた。竿から川へ糸が垂れている。水面から顔を出していたウキが、沈んだ。

「よっと」

条件反射で男は竿を立てた。手ごたえがあった。何かがかかった。

「大きいな」と、男は呟いた。竿を握る手に汗がにじむ。心臓の鼓動が早くなった。波立つ水面から、獲物の背が見えた。大鯉だ。

「よし!」と、男は叫んだ。

「お父さん。魚、釣れた?」

男の子が隣で言った。

誰だ。

いや、おれはこの子を知っている。忘れた記憶を釣って欲しいと頼みにきた子だ。でも、いま横にいるのは、その子よりも小さい。

「マコト」

男の口から名前が出た。

この子の名前は「誠人」。

おれの息子だ。

どうして忘れていたんだ。

「言っただろ。お父さんは釣りの天才なんだ。ずっと昔から、魚に糸を切られたことはないんだよ」

自然に言葉が出た。

「だから。この針はずっと昔から使ってる」

釣った鯉から外した針は、銀色が眩しい鋭い針だった。

 

「大きくなったな、誠人」

男は目を開けて、男の子に言った。その目から、涙が溢れていた。そして、男の子を抱きしめた。

幼い子どもを残して死んでしまった。

つらかった。だから記憶から消してしまっていたのか。情けない。忘れたら、この子が可哀そうじゃないか。

「ごめん、誠人。お父さん、全部思い出したぞ」

「ごめんなさい。ぼくも、忘れそうだった」

誠人を抱きしめる力が強くなった。

「あと、どれくらいここにいられるんだ?」

「夜が明けるまで」

「それまでここ釣りをしよう」

忘れない思い出をつくろう。

夜が明けるまで、二人の声が「記憶の沼」に響いていた。

(了)